第45.3話 「索隠」
見つからない。
ただ、それだけのことだった。
夜の二十一時三分。一ノ瀬直哉は、自室の壁を埋める本棚の前に立ち尽くしていた。探しているのは、かつて読んだ記憶のある一冊の文庫本だ。数日前に書店で最後の一行を思い出して以来、どういうわけか、もう一度最初からページを繰ってみたいという衝動に駆られていた。特別な理由があるわけではない。本当に、何一つとして。ただ、一度芽生えたその欲求は、静かに、しかし確実に彼の思考の隅を占拠していた。
直哉は眼鏡の位置を直しながら、視線で棚の背表紙をなぞっていく。最上段の古い学術書から、中段の小説類、そして最下段の雑多な新書に至るまで、二度、三度と往復させる。しかし、目的のタイトルは一向に姿を現さない。
「おかしいな……」
小さく首を傾げる。確かに所有していたはずだった。いや、正確には「読んだ記憶」があるだけで、本当に自分で購入してこの棚に収めたのかどうか、そのあたりの輪郭すら曖昧になっていく。記憶の不確かさに、直哉は自嘲気味な笑みをこぼした。数日前まではその存在すら忘れていたというのに、いざ「ない」と分かると、急に喉が渇いたようにその物語を求めてしまう。人間とは、どこまでも都合のいい生き物だった。
諦めきれず、デスクの引き出しを開け、部屋の隅に積まれた未整理の書籍の山を崩し、別の小さなラックを探る。やはり見つからない。
だが、その代わりに――別の背表紙が視界に飛び込んできた。
「……ああ、これか」
それは、探していたものとは全く違う、やはり何年も前に読んだきりの小説だった。プロットの大部分は忘却の彼方にあったが、どこか煤けたような独特の装丁だけは鮮明に覚えていた。直哉はそれを手に取ってみる。天の部分に薄く積もった埃を指先で払い、何気なく一ページ目を開いた。一行目を読み、二行目を追い、三行目に差し掛かったところで、彼は自分が本来の目的を完全に忘れてその世界に没入しかけていることに気づいた。
「俺は一体、何をやっているんだか……」
ふっと短く息を吐き出し、独りごちる。滑稽な話だった。一冊の本を探していたはずの男が、今や全く別の本を熱心に眺めている。
しかし、その感覚は決して不快ではなかった。むしろ、奇妙な心地よささえあった。一つの物語が呼び覚まされると、それは磁石のように別の物語を引き寄せ、それに付随する当時の記憶や空気感までもを連鎖的に引っ張り出してくる。読書という行為は、目的地へ向かって最短距離を走る一本道ではない。あちこちに張り巡らされた連想の糸を辿り、気付けば全く予想もしなかった場所へ行き着いてしまう、そんな、あてのない散策に似ていた。
そう思った瞬間、視線の端、棚の最奥の隙間に、見覚えのある色彩が滑り込んでいるのが見えた。
「――あった」
探していた本だった。それは最初からそこにあったのだ。ただ、隣の厚手のハードカバーの影に隠れ、直哉の視野から器用に身を隠していただけだった。
目的の文庫本を引っ張り出し、指先にその軽さを感じた時、小さな安堵が胸をかすめた。だが、彼はすぐにそのページを開こうとはしなかった。左手には今しがた見つけた「探していた本」、右手には連想の途中で捕まえた「別の本」。両方の重みがそこにある。それだけで、なぜか妙に満ち足りた気分になっていた。
窓の外へ目をやると、東京の夜はどこまでも静まり返っている。本棚もまた、ただ沈黙を保ったままそこに佇んでいた。整然と並ぶ背表紙たちは何も語らない。しかし、その静寂の奥には、彼が通り過ぎてきた無数の物語が、眠るように蓄積されている。読んだ物語、忘れてしまった物語、突然思い出した物語、そして、もう一度出会い直した物語。
直哉は二冊の本を、それぞれの定位置へとゆっくりと戻した。
今夜はもう、ページを繰ることはしないだろう。ただ、それが「確かにそこにある」と確認できただけで、十分だった。彼が本当に探していたのは、物語そのものではなく、かつての自分の一部が、今も変わらずそこに遺っているという確信だったのかもしれない。本棚から伝わる微かな紙の匂いは、冷えかけた夜の空気に混ざりながら、彼をひどく安心させていた。




