第45.2話 「―未だ、遺るもの」
とうに忘れてしまったはずだった。
少なくとも、自分ではそのつもりでいたのだ。
時計の針は十九時四十八分を指している。会社からの帰り道、駅ビルの中にある書店に、一ノ瀬直哉はいた。特に明確な目的があったわけではない。ただの気まぐれな寄り道だ。新刊の平台を眺め、平積みされた文庫本の山をなんとなく視線で追う。店内は静まり返り、紙とインクの淡い匂いが微かに鼻腔をくすぐる。直哉はその、世界のノイズが遮断されたような空間が、昔から決して嫌いではなかった。
棚の前に立ち、目的もなく背表紙の列をなぞっていた、その時だった。
「あ――」
視線がある一冊のところで止まる。見覚えのあるタイトルだった。確かに読んだ記憶がある。もう何年も前のことだ。正確にそれがいつだったのかは思い出せないし、物語のあらすじも、登場人物たちの名前も、今となっては霧の向こうにあるように曖昧だった。詳細なプロットなど、とうの昔に記憶の底へ零れ落ちてしまっている。
しかし、奇妙なことに――たった一つだけ、鮮明に浮かび上がるものがあった。
その物語を締めくくる、最後の一行。
直哉は胸の内で小さく驚きを覚えた。
「あれか……」
自分でも不可解だった。もし何かを覚えているのだとすれば、それは物語のクライマックスであるべきだし、あるいは印象的な主役の台詞であるべきだ。だが、実際に残っていたのは、本を閉じる直前に目にする、あの最後の一行だけだった。他の一切が色褪せていく中で、その部分だけが防腐処理でも施されたかのように、当時の輪郭を保っている。理由は分からなかった。当時も、そして今も。それでも、その言葉は直哉の中に生き延びていた。
棚からその文庫本を抜き出してみる。指先に馴染む軽い紙の重み。だが、ページを繰ることはしなかった。中身を確かめるまでもなく、その一行は脳裏に刻まれているからだ。ただ表紙の装丁を眺めていると、胸の奥から澱のような懐かしさが、ゆっくりとせり上がってくる。
ふと、思考が形を成した。
物語というものは、そのすべてを人間の内に残してくれるわけではない。むしろ、大半は消えていくのだ。台詞も、情景も、些細なエピソードも、時が経てば少しずつ、しかし確実に摩耗していく。それでも、必ず何かが残る。ほんの小さな、剥落した欠片のようなものが。そして私たちは、最初にその本を開いた時、自分のどこにその欠片が突き刺さるのかを、決して知ることはできない。何年も経ってから、ある日突然、体内に残った異物に気づくのだ。
本を元の位置に戻すと、トントンと静かな音がした。
店内にはまだ他の客の気配があったが、直哉の小さな感傷に気づく者など誰もいない。一冊の古びた小説が、一人の男の過去を呼び覚ましたことなど、世界の誰も知らない。ただ直哉だけが知っている。そして、それで十分だった。
自動ドアをくぐり、書店の外へ出ると、夜の空気が肌を小さく粟立たせた。
見上げる空を、雲がゆっくりと流れていく。ドラマチックなことなど何も起きない、いつも通りの退屈な夜だ。ただ、何年も前に読んだ物語の最後の一行が、今も自分のどこかに静かに息づいている。未だ、遺っている。
それだけのことが、なぜか少しだけ、悪くないと思えた。




