第39話 「途中」
まだ、途中の段階だった。ただ、それだけのことだった。
午前一時三十四分。一ノ瀬直哉の部屋。
スマートフォンの青白い光が、暗闇の中で彼の輪郭を淡く切り取っている。液晶に映し出されているのは、現在進行形で追いかけているある作品の最新エピソード。そしてその下には、これまで積み上げられてきた過去の章が、長いスクロールバーの向こうに整然と連なっていた。
物語は今もなお、うねりを上げて進んでいる。完結の二文字はどこにもない。
これがどう終わるのか、登場人物たちがどんな結末を迎えるのか、読者である直哉には知る由もなかった。
「まだ半分、というところか」
声は静寂に吸い込まれ、夜の空気に溶けていく。
現在連載中の作品なのだから、終わっていないのは自明の理だ。しかし、熱中して読んでいる最中、読者は往々にしてその事実を忘れてしまう。目の前で展開される世界があまりにも強固で、それ自体が最初から完成された宇宙であるかのように錯覚してしまうからだ。
だからこそ、最新話の最後の行に突き当たり、次のページが存在しない現実に戻された時、初めて思い知らされる。この物語は、今この瞬間も、世界のどこかで産みの苦しみと共に形を変え続けている「未完成の旅」なのだと。
直哉は視線を壁際の本棚へと走らせた。
綺麗に背表紙が並ぶ、すでに「完結」した漫画や小説の群れ。それらはすべて、直哉がすでに結末を知っている、あるいはいつでも最後のページに辿り着けることが約束された、安全な世界だ。
そこには、ある種の揺るぎない平穏がある。目的地が確定しているからこそ、読者はいつでも自分のペースでその世界を訪れ、去ることができる。それはそれで、ひどく贅沢で幸福な読書体験だ。
だが、今リアルタイムで追いかけているこの作品は、全く性質が異なっていた。
目的地など誰にも分からない。明日続きが読めるかもしれないし、一ヶ月後かもしれない。最悪の場合、何らかの理由で永遠にその先が閉ざされてしまうリスクだって孕んでいる。すべては不確定で、流動的だ。
それなのに、その不安定さが直哉を苛立たせることはなかった。むしろ、その「未完成」であるという事実そのものが、どうしようもなく彼を惹きつけてやまない。
ふと、少年時代の記憶が脳裏をよぎった。
毎週、決まった曜日に発売される漫画雑誌を、それこそ首を長くして待っていたあの頃。次の展開が気になって仕方がなく、日めくりカレンダーを睨みつけながら一週間という時間の長さを呪っていた。
当時は、ただ一秒でも早く「続き」という答えが欲しかった。今でもその本質は変わっていないのかもしれない。
しかし、大人になった今になって振り返ると、あの「待たされていた時間」の空白にこそ、最も濃密な物語が詰まっていたのではないかという気がしてくる。
学校の廊下や放課後の教室で、友人たちとあらすじを勝手に妄想し、次の展開を賭けて議論を戦わせた。あいつは死ぬ、いや絶対に生きてる、実はあの伏線は――そんな根拠のない推理を組み立てていた時間。
それは、物語が「途中」であり、誰も結末を知らない未完の世界だったからこそ成立した、奇妙な奇跡のような時間だったのだ。もし最初から最終巻までが目の前に積み上げられていたら、あの熱狂的なコミュニケーションは、きっと生まれ得なかっただろう。
直哉はスマートフォンの画面をスクロールさせた。
最新話の末尾、無数に並ぶ読者たちの感想欄、インフォメーションのステータス欄。どこを探しても「完結」という、物語を凍結させる二文字は見当たらない。
その事実に、彼は胸の奥で奇妙な安堵を覚えていた。
矛盾している、と自分でも思う。読者として、一秒でも早くこの物語の美しい大団円を見届けたいと願う一方で、この心地よい旅が、いつまでも終わらずに続いてほしいと願っている。
読者という生き物は、どこまでも強欲で身勝手なエゴイストだ。相反する二つの願望を抱えながら、それでもなお、どちらの感情も偽りのない本心だった。
窓の外を見やると、東京の夜は、すべてを覆い隠すように静まり返っていた。
遥か遠く、夜の帳の向こうにある高層マンションの、いくつかの窓にはまだ黄色い光が灯っている。
あの光の住人も、自分と同じように眠れぬ夜を何かの物語に捧げているのだろうか。あるいは、まさに今、この瞬間に液晶タブレットに向かって命を削り、「続き」という名の欠片を絞り出している書き手なのだろうか。直哉にそれを知る術はなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
自分も、そして自分が今愛しているこの物語も、まだ長い旅の「途中」にいるということだ。
直哉はスマートフォンの電源ボタンを押し、自室を元の暗闇へと戻した。
まだ、終わりではない。最後のページを捲る指の感触は、当分先までお預けだ。
しかし、だからこそ。この「途中」といういびつな境界線の上に立っているからこそ、今この瞬間にしか見えない、息を呑むような美しい夜景が目の前に広がっている。直哉は薄い毛布を首元まで引き上げながら、その未完成の余韻を噛み締めるように、静かに目を閉じた。




