第40話 「帰還」
無意識のうちに、そのページを開いていた。ただ、それだけのことだった。
午前一時十一分。一ノ瀬直哉の部屋。
スマートフォンの液晶が暗闇の中で息を吹き返し、見慣れたトップ画面を映し出している。そこに表示されているのは、新着のエピソードでもなければ、読者たちの熱が燻る感想欄でも、あるいは更新を知らせるシステム通知でもなかった。
ただの、作品の本棚画面。
メインビジュアルのサムネイル、簡潔な粗筋、そして縦一列に整然と並んだ各話の目次。すでに網膜に焼き付いているはずの、ありふれたインターフェース。
直哉はしばらくその画面を眺めてから、ふと我に返って思考を巡らせた。
「……なんで開いたんだ、僕」
特別な理由は何も思い当たらなかった。新しいエピソードが投稿されたわけではない。今から新しくコメントを書き残すつもりもない。そこに並んでいる最新の話数なら、昨日読んだばかりで、その余韻すらまだ胸の奥に残っている状態だ。
それなのに――気がつけば指先が勝手にアイコンを叩き、このお馴染みの場所にたどり着いていた。
奇妙な現象だった。本来、人がこの場所を訪れるのは、物語という『コンテンツ』を消費するためだ。だが、文字を読むわけでもないのに、ただこの空間を開くだけの日というものが、確かに存在した。
更新のない日。新しいドラマが何も起こらない、停滞した時間。
それでも、彼はここへやってくる。何かに導かれるように、ごく自然に。
直哉は画面をスクロールさせ、縦に並ぶ目次のタイトルを眺めた。
どれもこれも、すでに内容を知り尽くしたタイトルばかりだ。自分がかつて胸を躍らせて貪った話数、首を長くして更新を待ち侘びた章、あるいは、衝動を抑えきれずにたった二行の感想を書き残した夜のエピソード。
振り返れば、この文字列の隙間には、途方もない量の過去が埋まっている。
ふと、彼の指がその中の一つのタイトル上で止まった。
かなり前の、初期の方に投稿された古い話数だ。明確な意図があったわけではない。ただ気まぐれに、彼はそのリンクをタップした。
液晶にテキストが展開される。直哉はそれをゆっくりと、滑らせるようにスクロールしていった。隅々まで精読するつもりはなかった。ただ、斜め読みのようになぞっていく。
それなのに――どういうわけか、強烈なノスタルジーが彼の胸を突いた。
「ああ……これか」
言葉が静かに漏れる。
彼が思い出したのは、そこに綴られている登場人物たちの台詞や、プロットの妙だけではなかった。このエピソードを、まさにこの部屋で読んでいた『あの夜の自分』の記憶が、鮮明に蘇ってきたのだ。
気味が悪いほどに静まり返っていた、あの夜の空気。酷い睡魔に襲われ、まぶたが半分閉じかけていたにもかかわらず、その先の展開が気になってどうしても画面を消せなかった、あの時のもどかしい熱量。
物語のクオリティとは何の関係もない、一読者のプライベートなノイズ。
しかし、それらもまた、この作品のインクの隙間にしっかりと染み込んでいたのだ。
その時、直哉はハッとある本質に気づかされた。
一つの作品を長く、深く追いかけ続けていくということは、ただ物語のページを積み重ねていくことだけを意味しない。
それを貪るように読んだ無数の深夜。更新を待ち侘びながら過ごした、じれったい空白の時間。勇気を出して感想を送信した一瞬の緊張。そして、新しい通知を見つけて思わず口元を緩めた、あのささやかな幸福の瞬間。
それら読者自身の『生きた時間』もまた、作品の傍らに地層のように積み重なり、保管されているのだ。
だからこそ、人間は再びこの場所へと戻ってくる。
物語の結末を確認するためでも、新しい情報を仕入れるためでもない。彼らはただ――『帰ってくる』のだ。
その場所が、自分の人生のほんの一部を預けた、馴染みの深い港のようになってしまっているから。
直哉は視線を窓の外へと向けた。東京の夜は、すべてを許容するように静まり返っている。
机の上には、栞を挟まれたまま眠りについた文庫本。時計のデジタル表示は午前一時二十二分を指していた。液晶を眺めているうちに、現実の時間はまた少しだけ先へと進んでいた。
直哉は一度、作品のブラウザを閉じた。
そして――ほんの数秒の沈黙の後、再びそのページを開いた。
自分のその脈絡のない行動に、彼は思わず声を立てて苦笑してしまった。
理由はない。必要性もない。
だが、それでも足が向いてしまう。それはお気に入りの路地裏の喫茶店に、用もないのにふらりと立ち寄る感覚に酷く似ていた。毎日当たり前のように通り過ぎる、慣れ親しんだ散歩道を歩くような、至って自然な営み。
部屋は静かだった。夜も同じように静まり返っている。
新しい更新はない。世界に何の変化も起きてはいない。
しかし、その無機質な画面の向こうには、彼が確かにここで費やしてきた時間の足跡が、消えない体温を残して眠っている。
おそらく――何かを『好きになる』ということは、こういうことなのだろう。
単にパッケージされた物語を消費して楽しむだけでなく、何もない静寂の日であっても、その同じ場所に身を置くこと自体に、どうしようもない心地よさを覚えてしまう。
直哉は薄い毛布を手繰り寄せ、スマートフォンの画面を今度こそ暗転させた。そこにはもう、何も待ってはいない。しかし、彼の胸の奥には、馴染みの我が家へと帰り着いたような、静かで揺るぎない温もりが満ちていた。




