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誰が描いた?【マンガ・アニメ制作のリアルを描く業界ドラマ】  作者:
ARC III — 読んでいる

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第38話 「再読」

 知っているはずだった。ただ、それだけのことだった。

 しかし――どういうわけか、その手触りは以前とは微妙に異なっていた。

 午前一時七分。一ノ瀬直哉の部屋。

 彼は本棚の引き出しから、一冊の古い漫画の単行本を取り出していた。もう何度読み返したか分からない、彼の個人的な本棚における「一軍」の特等席を占める作品。お気に入りの一冊だ。

 展開はすべて頭に入っている。プロットの起伏も、キャラクターたちの運命がどこに帰結するのかも、すべて知っている。どこで驚かされ、どこで胸を締め付けられるか、そのタイミングさえ完璧に記憶しているはずだった。

 直哉は表紙を捲り、最初の一ページに視線を落とした。さらに次のページへ。慣れ親しんだ物語の世界へと、彼の意識が滑らかに滑り込んでいく。

 懐かしさ、という名の心地よい麻酔。だが、胸の奥を静かに満たしていく感覚は、単なるノスタルジーだけでは括れそうにありません。

「……ん?」

 不意に、喉の奥から小さな声が漏れた。

 ある一コマの前で、直哉の指がピタリと止まる。初めて目にするコマではない。むしろ、過去に何十回と網膜に映してきたはずの、ありふれた一幕だ。

 それなのに、どうしてだろう。今夜この瞬間になって、そのコマに描かれた「ある歪み」のようなものが、劇烈な存在感を放って直哉の視界をジャックした。

 背景の片隅に描かれた、名もなきモブの立ち姿。主人公の言葉に隠れるようにして配置された、極めて短い独白。かすかに歪められた、そのキャラクターの口元。

 どれもこれも、物語の本筋には一切影響を与えない、ミリ単位のディテールに過ぎない。

 直哉は指先で紙の端を弄びながら、記憶を遡った。これまでの読書の中で、自分の目は確実にこの光景を捉えていたはずだ。捉えていたにもかかわらず、脳のフィルターはそれを「情報」として処理せず、ただのノイズとして切り捨てていたのだ。

 そして今、そのノイズが突然、意味を持って語りかけてくる。

 不思議な感覚だった。紙の上のインクは、数年前に印刷されてから一ミリも動いていない。変わったのは作品ではなく、それを受け取る直哉自身の輪郭の方だった。

 かつては素通りしていたはずの些細な一幕が、今の自分には、どうしても無視できない重石となって本を捲る手を止めさせる。

 その逆もまた然りだ。昔、あれほど血を滾らせて熱狂した大ゴマが、今見返すとどこか遠くの出来事のように冷めて見えることもある。もちろん、今でもそのシーンは好きだ。だが、胸に突き刺さる痛みの深さは、明らかに当時とは違っていた。

 視点が、ずれている。

 直哉は次のページを捲った。彼が最も愛するクライマックスのシーン。

 台詞は一文字も変わっていない。構図も、演出も、数年前のあの日のままだ。それなのに、やはり湧き上がる感情のグラデーションが異なっている。

 昔は、ただ主人公の孤独と戦う姿に自分を投影し、拳を握りしめていた。だが今、直哉の目が真っ先に向かったのは、その主人公の背中を、言葉もなく見つめている「もう一人の登場人物」の瞳だった。

 同じページ、同じ台詞、同じ情景。

 しかし、彼が今見つめている「座標」は、過去のどれとも重ならなかった。そしてその結果として、胸に残る読後の余韻も、全く新しい色に塗り替えられていく。

「本を読むって、つくづく厄介だな……」

 暗闇の中で、ぽつりと呟いた声には、微かな畏怖が混ざっていた。

 同じ作品、同じテキスト。それなのに、捲るたびに世界はその表情を少しずつ変えていく。一度目の読書では決して見えなかったものが、二度目でうっすらと輪郭を表し、三度目でようやくその意味を理解する。

 いや、下手をすれば、十回読み返して初めて、作者が仕掛けた本当の罠に気づくことだってあるのかもしれない。

 読書という行為には、きっと「完成」の二文字は存在しないのだ。それは一度きりの消費ではなく、読む側の人生の変遷に伴走し続ける、終わりのない対話なのだろう。


 直哉は漫画をパタンと閉じた。

 手のひらに残る、少しだけ手垢で黒ずんだ表紙の手触り。四隅は丸く擦り切れ、背表紙には幾度となく開閉されたことによる細かな縦皺が刻まれている。彼がこの本を愛してきた、という事実の堆積がそこにあった。

 直哉はふと思った。

 これを描いた作者は、知っているのだろうか。

 自分が深夜の孤独の中で、命を削るようにして引いたその一本の線が、何年も経った後に、見知らぬ男の六畳間でこうして幾度も分解され、新しい意味を見出されているという事実を。彼らはそれを予期して描いているのだろうか。

 答えが出るはずもない。だが、直哉にはそれが、この冷酷な世界において極めて美しい奇跡のように思えた。

 作品は、あの日完成した場所に静かに佇み、凍結されている。一方で、それを受け取る読者は、時間の流れの中で否応なしに変質していく。そして、その変質した読者が再び凍結された世界を訪れるたびに、物語は新しい生命を得て脈打ち始めるのだ。


 窓の外を見やると、東京の夜は、すべてを許容するように静まり返っていた。

 机の上には、役割を終えた単行本。その隣で規則正しく点滅を繰り返すスマートフォンの残光。何も動いていない。何一つ、世界は変わっていない。

 時計のデジタル表示は午前一時三十八分。

 胸の中に残された、あの古い物語の余韻は、今や完全に「新しい物語」としての温度を帯びていた。かつて知っていたはずの景色が、今夜はまるで、初めて開く荒野のように直哉の前に広がっていた。


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