第37話 「栞」
どこまで読んだのだったか。ただ、それだけのことだった。
午前零時四十一分。一ノ瀬直哉の部屋。
彼は机の上の文庫本を開いたまま、指先を止めていた。数秒、あるいは数十秒。無為な時間が静寂の中に溶けていく。
確かに昨日もこの本を開いていたはずだ。……いや、間違いなく読んでいた。問題はそこではない。問題は、自分がどのページの、どの行まで視線を進めていたのか、その正確な座標を脳が完全に失念していることだった。
「……やられたな」
誰もいない六畳間で、ぽつりと苦笑が零れる。
本のページの間には、確かに一枚の栞が挟まったままだった。自分では正しく挟んだつもりでいたし、記憶の断片もそれを肯定している。しかし、どういうわけか現在の栞の位置は、実際の読書線から微妙にずれていた。数ページ、いや、下手をすれば十ページ近く手前に戻ってしまっているかもしれない。その境界線は酷く曖昧だった。
直哉は紙の端に指をかけ、ぱらぱらとページを繰り始めた。
見覚えのある台詞が目に飛び込んでくる。さらに一ページ捲る。この情景描写も、確かに一度脳内に描いた記憶がある。もう一ページ。
「……ん?」
ここはどうだろう。既読か、未読か。にわかには判別がつかない。
人間の記憶というフィルターは、自分で思っている以上に大雑把で、霧のように形を留めない。活字の並びをただ網膜に映しただけでは、それは記憶の底に定着してくれないのだ。
だが――ある一区画に視線が差し掛かった瞬間、直哉の指が止まった。
そこに並んでいたのは、特別な大見出しでもなければ、奇をてらったレトリックでもない。ただの、ありふれた一文だ。しかし直哉はそれを知っていた。文章の構造を覚えていたからではない。昨日、この一行を読み下した時に、自分の胸の奥に確かに生じた「かすかなざわめき」を、脳の細胞が鮮明に思い出したからだ。
「ここか……」
喉の奥で小さく呟く。胸のすくような、ささやかな安堵が室内に広がった。
物理的な栞が正しい位置を指し示す前に、彼自身の「感情の記憶」が、先に目的地へと辿り着いていた。
考えてみれば、読書という営みには、驚くほど多くの「記号」が存在している。
本の間に挟む一本の紐や、紙の栞。お気に入りのページの角を小さく折る、ドッグイヤー。あるいは電子書籍が自動で記録してくれる、最後の既読位置や閲覧履歴。それらはどれも合理的で、実用主義的で、読者を裏切らない。
しかし、そうしたシステムが拾い上げられない、目に見えない足跡というものが確かに存在する。
その本を開いていた時の、部屋の湿度。その日の自分の、傾きかけた心の傾斜。遮光カーテンの隙間から差し込んでいた、頼りない街灯の光。不意に襲ってきた微かな眠気。あるいは、登場人物のセリフに思わず口元を緩めてしまった、あの瞬間の空気感。
それらの些細なノイズこそが、実は最も強固な栞として、本の中に溶け込んでいるのかもしれない。
直哉は一度、文庫本をパタンと閉じた。そして、今度は慎重に、栞の挟まる位置を確認する。ページの隙間に滑り込ませた薄い紙片の角度まで、心持ち丁寧に整えた。完璧だ。……おそらく。少なくとも、そうであるべきだった。
本を机に置いた拍子に、直哉の脳裏に、また別の古い記憶がフラッシュバックした。
何年も前、それこそ学生時代に幾度となく読み返した、古い漫画の単行本だ。それが何巻だったのか、全体のストーリーがどう結末を迎えたのかは、もう霧の彼方に消え去ってしまっている。
それなのに、あの物語の中にあった「たった一コマの情景」だけは、今でも驚くほど鮮明に、色褪せずに残っている。あまりにも何度もそのページを開きすぎたせいか、あるいは、あの時の自分の何かが、そのコマのインクの隙間に永久に囚われてしまったからなのか。理由は分からない。
けれど、読むということは、きっとそういうことなのだ。
差し出された言葉のすべてを受け取ることはできない。すべてを記憶にとどめることも不可能です。それでも、零れ落ちていく砂のような文字の群れの中から、いくつかの微細な結晶だけが、濾過されるようにして自分の中に残る。
紙の上に。液晶の画面の裏側に。あるいは――それを受け取った、自分自身の輪郭のどこかに。
直哉は顔を上げ、窓の外へと目を向けた。
夜の底は相変わらず静まり返っている。道路の向こう側にある無機質なビル群の中で、たった一枚の窓ガラスだけが、黄色い光を放っていた。この広大な街の片隅で、自分と同じように、まだ眠れずに夜をやり過ごしている誰かがいる。
時計のデジタル表示は午前零時五十三分。
机の上に静かに横たわる文庫本。その中には、今度こそ正確な位置に栞が眠っている。これで次の夜は、迷わずに続きの荒野へと歩き出すことができるだろう。
直哉は微かに唇を綻ばせると、部屋の照明のスイッチに手を伸ばした。
カチリ、と小さな音がして、世界から光が失われる。
物語は一度、幕を閉じた。しかし、そこに残された名付けようのない記号は――今も暗闇の中で、静かに呼吸を続けていた。




