第36話 「更新履歴」
読み終えた。ただ、それだけのことだった。
しかし――直哉はすぐにブラウザのタブを閉じる気にはなれなかった。
午前一時二十六分。一ノ瀬直哉の部屋。
彼は先ほど公開されたばかりの最新話を、隅々まで堪能したところだった。面白かった。そして、読めば読むほどに、さらにその先の展開への渇望が募るような素晴らしい内容だった。
すぐにでも感想を書き残したい。そんな衝動が胸を突き上げていたが、今、彼の目が捉えているのは物語のテキストではなかった。画面を少し上にスクロールさせ、作品のインフォメーション画面を開く。
タイトル、総話数、作者名。そして――「更新履歴」のページ。
直哉は親指を小さく動かし、画面をゆっくりと下へと滑らせていく。
最新話の日付。その一つ前のエピソードの日付。さらにその奥にある、過去のログ。そこにはただ、無機質な数字と日付の羅列が延々と連なっているだけだった。
そこには物語はない。台詞もなければ、涙を誘うような感動的な演出もない。ただのシステム上の記録だ。
それなのに、どういうわけか直哉の視線はその数字の並びから離れなかった。
「変なものを見てるな、僕も」
ぽつりと暗闇に零れた呟きは、ひどく静かだった。
読者という生き物は、時に物語の本文以外の場所を熱心に読み耽ることがある。あらすじ、作者の近況報告、更新の履歴、ランキングの推移、あるいは他の読者たちの残したコメント欄。本来なら作品の価値とは直接関係のないはずの、周辺のノイズ。
だが、そのノイズの隙間にこそ、名付けようのない何かが確かに息づいている。
直哉は画面に並ぶ日付を一つずつ指先で追った。
一週間前。二週間前。三週間前。
ある時期には、数ヶ月にわたって更新が完全に途絶えている空白地帯があった。かと思えば、別の時期にはまるで何かに取り憑かれたかのように、連日のように新しいエピソードが投下されている過密地帯もある。
お世辞にも規則正しいとは言えない、いびつなペース。だが、それでいいのだと直哉は思う。物語を紡いでいるのは精密な機械ではなく、生身の人間なのだから。常に一定のバイオリズムで、同じだけの熱量を排出し続けられるわけがない。
しかし、その不揃いな更新履歴の凹凸を見つめていると、直哉には画面の向こうにいる書き手の「時間の足跡」が、おぼろげながら見えてくるような気がした。
この時期は本業が忙しかったのだろうか。あるいは、プロットが完全に袋小路に入り込んで苦しんでいたのか。逆にこの怒涛の連続更新の時期は、寝食を忘れるほどのゾーンに入っていたのかもしれない。
もちろん、すべては一読者に過ぎない直哉の勝手な妄想であり、真実がどこにあるかは分からない。それでも、彼は想像せずにはいられなかった。
ふと、彼の指が特定の明確な空白で止まった。
前後を比べても明らかに長い、約二週間ほどの断絶。その沈黙のあとに投稿されたエピソードの冒頭には、原作者からの極めて短い一言が添えられていた。
『お待たせして申し訳ありません』
たったそれだけ。定型句のような、素っ気ない謝罪の言葉。
それなのに、直哉の記憶にはその一文が鮮明に焼き付いていた。なぜなら、その二週間、直哉自身もまた渇きを覚えるほどの切実さで物語の続きを待っていたからだ。そして、その一文の後に新しいエピソードが現れた瞬間の、胸が跳ねるような小さな歓喜を、今でもはっきりと覚えている。
直哉の唇から、微かな笑みが漏れた。
読者は物語を読む。だがそれと同時に、彼らは物語の周辺にある些細な変化をも、知らず知らずのうちに読み取っているのだ。
更新と更新の間に流れた時間の長さ。作者が残したたった一行の吐露。あるいは、エピソードが投稿された深夜の、歪なタイムスタンプ。
それは決して、作者を監視したいという歪んだ執着からくるものではない。一つの作品を長く、深く追いかけ続けていれば、それらの境界線は自然と視界に溶け込んでくる。ただ、それだけのことなのだ。
視線を窓の外へ向けると、夜の底は気味が悪いほどに静まり返っていた。
時計のデジタル表示は午前一時三十八分。彼が数字の海を彷徨っている間にも、現実は冷酷に先へと進んでいく。
スマートフォンの画面には、まだ更新履歴のページが開かれたままだ。
ただの日付。ただの数字。そこには小説としての文章は一行も存在しない。
だが、その数字の裏側には、この物語を今日という日にまで押し流してきた、原作者の「生きた時間」が確実に堆積している。
直哉はスマートフォンの電源を落とした。
部屋は再び、元の静寂な闇へと沈む。
読者は物語を読む。しかし時に、その物語に伴走してきた目に見えない「時間そのもの」をも読んでいるのだ。そして、その不確かで愛おしい営みこそが、今夜の直哉の心を、ほんの少しだけ満たしているのは間違いなかった。




