第35話 「待つ」
まだ更新されていなかった。ただ、それだけのことだった。
午前零時十二分。一ノ瀬直哉の部屋。
彼はスマートフォンの画面を点灯させ、目的のページをチェックし、そして何事もなかったかのように指先で画面を消した。数分後、まるで取り憑かれたように再び画面を灯し、確認し、また消す。
「まだか……」
誰もいない暗闇に向かって、ぽつりと呟きが零れた。誰に聞かせるでもない、ただの独り言だ。
今日が更新予定日であることは分かっていた。正確には、昨日の活動報告の最後に、原作者がそう書き残していたのだ。
『明日、更新する予定です』
たったそれだけの一行。しかし、飢えた読者にとって、その文字列はどれほど精巧な招待状よりも強力な意味を持っていた。
直哉は椅子の背もたれに身体を預けた。まだ日付が変わって十二分が過ぎたばかりだ。遅れているわけではない。むしろ、ネットの海に作品を放流する時間としては至って正常の範疇だ。それなのに、どうしてこれほどまでに心が急いてしまうのか。
読者という生き物は、つくづく身勝手なエゴイストだと直哉は自嘲する。ひとたび「更新」という果実を仄めかされれば、脳の片隅で無意識にそのカウントダウンを始めてしまう。そういう性なのだ。
その時、手元でスマートフォンが短く震えた。
通知。だが、液晶に浮かび上がったのは目当てのアプリのアイコンではなかった。直哉の肩が、目に見えて落胆の軌道を描いて下がる。思わず苦笑が漏れた。
期待しすぎている。別に急ぎの用事があるわけでもないというのに。画面の向こうにいる書き手にだって、当然ながら生活がある。本業の都合、プライベートの雑事、あるいは単に体調が優れない日だってあるだろう。そんなことは百も承知だ。大人の理性としては、完璧に理解している。
それでも、待ってしまう。理屈ではない部分が、物語の続きを求めて渇望している。
視線を本棚へと移した。すでに読み終えた名作、途中で止まっている小説、買っただけで満足して積み上げられたままの、いわゆる「積読」の山。読むべきものはいくらでもある。読書に飢えているわけではない。
だが、今彼が待っているあの作品の代わりは、この世界のどこを探しても存在しないのだ。似たような構成の物語や、他にも面白い作品ならいくらでもある。しかし、あの物語の続きは、あの物語の中にしか存在しない。だからこそ、彼は待つ。理由はそれだけで十分だった。
時計のデジタル表示に目をやると、午前零時三十七分になっていた。まだ、兆候はない。
直哉はスマートフォンを、あえて手の届かない机の奥へと押しやった。そして、手元にあった別の文庫本を開く。
一ページ、二ページ、三ページ。活字の海に意識が沈み込み、ようやく心が落ち着きを取り戻し始めた、その時だった。
――ピロン。
電子の電子音が、静まり返った室内を鋭く切り裂いた。
直哉の頭が、弾かれたように跳ね上がる。一秒、二秒、三秒。一瞬の躊躇のあと、彼は貪るようにスマートフォンをひったくった。
通知を開く。そこには、待ち望んでいた文字が躍っていた。「新着エピソードが公開されました」。
無機質なシステムテキスト。それだけだった。しかし、直哉の口元は、自分でも制御できないほど自然に、滑らかな弧を描いて持ち上がった。
「……やっと来たか」
部屋には誰もいない。それでも、言葉が勝手に喉を突いて出た。
来た。ただ、それだけのことだ。自分自身が何かを成し遂げたわけでも、何かを得たわけでもない。夜を徹して原稿に向き合い、ボタンを押したのは画面の向こうの作者だ。直哉はまだ、最初の一行すら読み始めてもいない。
それなのに、胸の奥から湧き上がるこの小さな全能感のような喜びは何だろう。
直哉は作品のページを開いた。新しい話数。新しいサブタイトル。まだ誰も見たことのない、インクの匂いさえ漂ってきそうな、未知の文字列がそこに整然と並んでいる。
不思議な感覚だった。ほんの数分前まで、この世に存在しなかったはずのテキストが、今この瞬間に世界の新しい一部として定着している。どこか遠くの部屋で、誰かがそれを命を削って書き上げ、アップロードしたのだ。そして今、自分がその「最初の目撃者」の一人になろうとしている。
その事実が、どうしようもなく特別で、贅沢なことに思えた。
直哉は深く、静かに息を吸い込んだ。そして、スマートフォンの液晶に映る、最初の一行へと視線を落とす。
夜はどこまでも静かだった。六畳の自室も、相変わらずの静寂を保っている。しかし、世界は確実に変わっていた。彼が先ほどまで費やしていた、あのひどくもどかしくて愛おしい「待つ時間」は、今、幸福な終わりを迎えた。




