第34話 「名前」
その名前が、ふと目に留まった。ただ、それだけのことだった。
午前一時四十九分。一ノ瀬直哉の部屋。スマートフォンの画面には、未だに作品のコメント欄が開かれたままだ。そこには、夜が更けるにつれて増えていく、新しい読者たちの言葉が並んでいた。
昨日も同じ場所を見たはずだった。だが、今日になると、その数はまた確実に増えている。一言だけの短いもの、熱量の籠もった長いもの。一行だけの呟きもあれば、三行以上にわたる長文もある。本当に多種多様だった。
直哉は特に目的もなく、親指で画面をスクロールさせていく。そして――ある一点で、その指がピタリと止まった。
惹かれたのは、コメントの内容ではない。その横に表示されている「名前」だった。ユーザーネーム。発言者の傍らに小さく添えられた、ただの記号。それなのに、どういうわけか直哉の視線はそこから動かなくなった。
「妙な名前だな……」
ぽつりと呟く。もちろん、悪い意味ではない。むしろ逆だった。どこか耳に残り、一度見たら忘れないような、不思議な魅力を持つ文字列。
そして、そんな風に目を引く名前は、一つだけではなかった。
飼い猫の種類を連想させるもの、大半が意味を持たない数字の羅列で構成されているもの、どこかの国の食べ物の名前、あるいは、どういう思考回路から導き出されたのかさえ見当もつかない奇妙な造語。本当に、千差万別だった。
考えてみれば、不思議な感覚だ。普通、人が他人の創作物を楽しむ時、注目するのは作品そのものの内容だ。あるいは、他の読者がどんなリアクションをしているか、その「言葉」を消費する。だが、その言葉を発している読者一人ひとりの「名前」にまで意識を向ける者は、そう多くはない。
それなのに、ごく稀に、記憶の隅に引っかかって離れない名前が存在する。
それは、毎話のようにその名前を見かけるからかもしれない。あるいは、彼らの残す言葉の節々に、隠しきれない独特の「癖」があるからかもしれない。正確な理由は直哉にも分からなかった。だが、電脳の海に漂う「顔のない他者」たちが、その文字列を媒介にして、彼の脳内で少しずつ具体的な輪郭を持ち始めているのは事実だった。
直哉は別のコメントを開いた。
『今回も良かったです』
短文。弁護の余地もないほどの短文だ。しかし、その横にあるユーザーネームを見た瞬間、見覚えがある、と直哉の脳が反応した。
先週も見た。いや、二週間前にも確かにそこにいた。おそらく、同じ人間だ。この物語が産声を上げた初期の頃から、ずっと変わらずに伴走してきた読者の一人なのだろう。
直哉はふと考えた。
これを書いている「作者」の側から見たら、この景色はどう映っているのだろうか。橘レイという漫画家は、こうして並ぶ名前の一つひとつを覚えているのだろうか。それとも、名前など記号として切り捨て、ただ内容だけを漫然と眺めているのだろうか。
彼女の性格を考えれば、後者かもしれない。だが、もし同じ名前が何度も、何ヶ月も目の前に現れ続けたとしたら――いくら偏屈な彼女であっても、それを意識しないなんてことは不可能なはずだ。なぜなら、画面の向こうにいるのは、紛れもない一人の人間なのだから。
そこで直哉は、ハッとある事実に思い至った。
自分自身もまた、その「名前」の群れの一部なのだということに。
毎回ではない。気が向いた時に、数回に一度、この同じ場所に足跡を残してきたに過ぎない。しかしそれは裏を返せば、作者という特等席から見れば、自分もまた「無数に並ぶ文字列の中の一つ」として認識されている可能性があるということだ。
その事実は、直哉の胸に奇妙な居心地の悪さと、微かな高揚感をもたらした。
単なる一人の「読者」でいる間、彼は常に自分を透明な存在だと思い込んでいた。ただ物語を消費し、通り過ぎ、楽しむだけの無害な観客。しかし、一度でも感想欄に言葉を書き残した瞬間、その透明な身体は掠れたインクのような足跡となって、世界の向こう側に定着してしまう。完全な匿名では、いられなくなるのだ。
もちろん、それは自分の本当の顔でもなければ、本名でもない。だが、だからといって「何も残っていない」わけではない。
直哉は、自分がかつて書き残した古いコメントを遡ってみた。どれもこれも、今見返すとひどく短く、他愛のないものばかりだ。
「面白かったです」
「続きを楽しみにしています」
「読んだ後も少し考えてしまいました」
そんな、ありふれた文字列。だが、それでいいのだと直哉は思う。感想欄は、大学の論文を提出する場所でもなければ、プロの評論家が舌鋒を鋭くする戦場でもない。ただ、「私は確かにここにいた」「これを読んで、心を動かされた」という事実を刻みつけるための、ささやかな墓標のようなものだ。そして、それだけで十分すぎるほどに、その役割を果たしている。
直哉はスマートフォンから目を離し、窓の外を眺めた。
夜の静寂は、さらにその深みを増している。向かいのビルの、もう一つの窓から明かりが消えた。時計のデジタル表示は午前二時二分。意識しないうちに、夜の境界線はまた少しだけ先へと押し広げられていた。
スマートフォンの液晶の中では、今もなお見知らぬ人々の名前が整然と並んでいる。
会ったこともなければ、これからも出会うことのない他人。住む世界も、年齢も、職業も違うはずの人間たちが、同じ物語の、同じ夜の片隅に集まり、何度も足跡を残していく。
それはどこか滑稽で、奇妙な奇跡のようであり、そして、たまらなく温かかった。
直哉はスマートフォンの電源ボタンを押した。
一瞬にして光が失われ、部屋は三度、深い闇に包まれる。
彼は彼らの顔を知らない。声のトーンも知らない。それでも、直哉の脳内には、あの奇妙な名前たちがいくつかの足跡として刻まれていた。
きっと、「読者」になるということは、そういうことなのだ。同じ物語という荒野を歩む、見知らぬ旅人たちの足跡を、知らず知らずのうちに愛おしく思い始めてしまう。直哉は毛布を手繰り寄せながら、静かに目を閉じた。




