第33話 「既読」
感想は書き終えた。送信ボタンも押した。
本来なら、すべてはそこで完結しているはずだった。
午前一時二十三分。一ノ瀬直哉の部屋。机の上に放り出されたスマートフォンの画面は、すでに冷たく消灯している。六畳の空間を満たすのは、相変わらずの張り詰めたような静寂だけだった。
それなのに、直哉は先ほどから幾度となく、無意識にその黒い硝子へと視線を走らせていた。
特別な理由などない。……いや、本当はあるのだ。ただ、それを自分の中で認めるのが少し気恥ずかしいだけだった。
「僕も大概だな」
誰もいない暗闇に向かって、小さく自嘲の笑みを零す。
やったことと言えば、ネットの僻地にある感想欄に、たった二行のコメントを書き残しただけ。それが原作者の目に留まる保証などどこにもないし、ましてや返信など最初から期待していない。
それなのに、胸の奥の微かな燻りは消えてくれなかった。
自分が先ほど放流したあの頼りない言葉の破片は、今ごろ電脳の海のどこを漂っているのだろう。そんな他愛のない思考が、頭をもたげては消えていく。
通知のランプは沈黙したままだ。当然だろう、送信してからまだ数分しか経っていない。だが、時間の感覚が奇妙に歪んでいた。まるで、あの二行を送り出してからもう一時間以上も経過したかのような錯覚に囚われる。
直哉は椅子の背もたれに身体を深く預け、視線を窓の外へと逃がした。道路の向こう側にあるマンションの、最後の明かりが今、ぷつりと消えた。夜の濃度が、一段と増していく。
その光景を見つめているうちに、彼はふと、古い記憶の引き出しを開けていた。
まだ小学生だった頃の話だ。当時、狂ったように熱中していた漫画の単行本に挟まれていた、愛読者ハガキ。それに生まれて初めて「ファンレター」というものを書いた時の記憶。
今思い出せば、顔から火が出るほど稚拙で、気恥ずかしい代物だった。鉛筆を握る手に余計な力が入り、歪んだ文字で「おもしろかったです」「がんばってください」とだけ書かれた、中身の薄いハガキ。
けれど、それをポストに投函する前夜、自分は机の前で気の遠くなるような時間を過ごしたはずだ。どんな言葉を使えば失礼にならないか、変な奴だと思われないか。子供ながらに、世界の一大事であるかのように悩み抜いた。そして結局、仕上がったのはどこにでもある普通のハガキだった。
直哉は苦笑しながら、当時の自分に今の自分を重ね合わせる。
プラットフォームがウェブの感想欄に変わり、文字がデジタルになったところで、人間の本質はそれほど変わらないらしい。何かを伝えたいという切実な欲求と、それに伴うほんの少しの気恥ずかしさ。その狭間で、大人の男になっても同じように足掻いている。
不意に、机の上のスマートフォンが激しく振動し、闇を切り裂くように眩い光を放った。
直哉は条件反射的に上体を起こし、画面を覗き込む。ポップアップされた通知。だが――。
「……なんだ、デリバリーの広告か」
声がぽつりと室内に落ちる。誰に聞かせるでもない落胆の響き。
ほんの少しだけ胸を突いた落胆が、自分でも驚くほどに重かった。どうやら自分は、自覚している以上にあの二行の行方を気に揉んでいるらしい。
視線を机の上へと移す。そこには、もう何度読み返したか分からない一冊の文庫本が転がっていた。何度も指先で触れたせいでカバーの端は擦り切れ、四隅は丸く形を崩している。彼のお気に入りの小説だ。
直哉は、その本を書いた人間の顔を知らない。どこで、どんな風に言葉を紡いでいるのかも、どんな飲み物を好み、どんな机で執筆しているのかも知らない。
それでも、彼はその見知らぬ誰かの言葉を何年も読み続け、そこから膨大な何かを受け取ってきた。
考えてみれば、ひどく奇妙な関係だ。作品という一本の糸だけで繋がった、顔も名前も知らない他人。しかし、だからといって「何も知らない」わけではないのだ。
すべてのページの裏側には、確実に「血の通った人間」が呼吸している。
読者は忙しない日常の中で、往々にしてその事実を忘れてしまう。そしておそらく、牙を研ぐように孤独と戦う書き手の側も、時に忘れてしまうのかもしれない。そのページの向こう側で、息を潜めて物語の続きを待っている、血の通った「読者」の存在を。
スマートフォンが、再び短く震えた。
二度目の通知。今度は、作品ページのコメント欄に更新があったことを知らせるシステム通知だった。
直哉は期待を押し殺しながら画面を開く。だが、そこに表示されたのは、自分のコメントに対する返信ではなかった。見知らぬ誰かが、新しく書き残した別の感想だった。
『更新ありがとうございます』
ただそれだけの、ありふれた短文。
しかし、直哉はその文字の並びを、少しだけ長く見つめていた。
この世界のどこかにいる、名前も知らない誰か。その人間が、自分と全く同じ時間に、同じ物語の、同じページを開いて、同じように心を動かされている。
胸の奥に、小さくて、しかし確かな温もりが灯るのを感じた。
自分は作者でも何でもないのに、どうしてこんな風に救われたような気持ちになるのだろう。直哉は静かにブラウザを閉じた。
部屋は静かだった。時計の針は午前一時三十七分を指している。
言葉を紡ぐ者。それを受け取る者。そして、同じように暗闇の中で物語を貪る者。
彼らは互いの顔を見ることもなければ、その名前を交わすこともない。それでも確かに、彼らは今、この夜の片隅で同じ「ページ」を見つめている。
そのあまりにも素朴で、当たり前のような事実が、直哉にはひどく愛おしく、そしてほんの少しだけ、温かかった。




