第32話 「感想」
面白かった。だが、それだけでは足りなかった。
午前零時五十七分。一ノ瀬直哉の部屋は、深夜の静寂に包まれていた。
視線はスマートフォンの画面に固定されている。さっきまで読んでいた作品のページは、とうの昔に閉じていた。それなのに、どういうわけか親指は硝子の画面から離れようとしない。
何かを書こうとしていた。読後の感想、あるいはささやかなコメント。
実のところ、短い一言だけで十分なはずだった。「面白かったです」とか、「続きを楽しみにしています」とか、そういった類の、どこにでも転がっている無難な言葉。
直哉は、暗闇の中で白く浮かび上がる入力欄を見つめた。縦のカーソルが、規則正しいリズムで点滅している。
数秒の沈黙。画面には一文字も現れない。やがて、彼は思い切ったように指先を動かした。最初の一文字。
「面」
そして、すぐにバックスペースを連打して消した。
直哉は再び思考の泥沼に沈み込む。
「難しいな……」
誰もいない六畳間で、ぽつりと呟きが零れた。
ただ、読んだ感想を書き残す。それだけのことなのに、いざやろうとすると妙に高い壁が立ちはだかる。
面白かったというのは、紛れもない本心だ。だが、何がそんなに面白かったのか、どこに心を動かされたのか。それを他人に説明しようとした瞬間、頭の中のパズルは急激にその複雑さを増していく。
直哉は椅子の背もたれに深く身体を預け、天井の木目を見つめた。
読み終えた時に胸の奥に澱のように残ったあの感覚は、確かにまだそこにある。だが、それを無理に言葉という型に流し込もうとすると、その瞬間に感情の形そのものが変わってしまうような気がした。
不思議なものだ。読むことと、それを言葉にして語ることは、全く別の行為だ。ただ心で感じるということと、その理由をロジカルに説明することもまた、地続きではない。
その時、手元でスマートフォンが短く震えた。
液晶に表示されたのは、いつもの友人からの、用件だけの短いメッセージだった。
『どうだった?』
画面を見つめ、直哉は微かに唇を綻ばせた。まるで、自分が今この暗闇の中で何に迷っているのかを、すべて見透かされているようなタイミングだった。
『面白かった』
それだけを打ち込んで送信する。すぐに画面が更新され、返信が届いた。
『どこが?』
直哉の指がピタリと止まる。
「……そこなんだよな」
再び天井を仰ぐ。友人は何も悪くない。至って普通の、そして当然の質問だ。しかし、それに答えるのは意外なほどに難しかった。
数秒、さらに十数秒。暗闇の静寂の中で、彼は諦めたように、しかし自分の本質に最も近い言葉をゆっくりと打ち込んだ。
『なんか好きだった』
送信。
批評としては、いささか雑で投げやりな返答かもしれない。だが、嘘は言っていなかった。むしろ、今の自分の心境に最も正確にフィットしている気がした。
友人からの返信は、今度は驚くほどすぐに返ってきた。
『それ分かる』
直哉は思わず声を立てて笑ってしまった。
結局のところ、創作物に対する人間の受容など、そういうものなのかもしれない。
物語の構成、演出の妙、作画のクオリティ、あるいは台詞のセンス。作品を因数分解すれば、説明可能な技術的要素はいくらでも見つかる。だが、すべての要素を通り抜けた最後に残るものは、もっと曖昧で、言語化を拒む何かだ。「なんか良かった」「なぜかまた読みたい」。そんな頼りない感覚を、人間は意外なほど簡単に共有できてしまう。
直哉はもう一度、スマートフォンの感想欄へと視線を戻した。
カーソルは相変わらず、点滅を繰り返している。だが、今度はさっきほど迷わなかった。キーボードを叩く指が、自然と動いていく。
『面白かったです。読んだ後も少し考えてしまいました』
短い。弁護の余地もないほどに短い文章だ。だが、今の自分が差し出せる言葉としては、これで十分だと思えた。
送信ボタンを押す。画面が一瞬だけ白く反転し、感想の件数が「1」だけ増えた。
世界がひっくり返るような変化ではない。作品のランキングが変わるわけでも、明日からの日常が劇的に楽になるわけでもない。
それでも、このネットの僻地に残された二行の言葉を、どこかで作者が読むかもしれない。あるいは、ただのノイズとして読み飛ばされるかもしれない。そんなことは分からない。
それでも、ほんの少しだけ、その執念の欠片を届けたかった。
直哉はスマートフォンを机の上に置いた。
部屋はどこまでも静かだった。東京の夜も、すべてを隠匿するように静まり返っている。
時計のデジタル表示は午前一時九分。彼が迷っていた時間は、確かに夜を少しだけ進めていた。
胸の中に残された作品の余韻は、未だに消えない。そして、暗闇の向こうへと送り出した頼りない二行の言葉もまた、冷たい電脳の海を渡り、どこか遠くにいる誰かのもとへと静かに向かっていた。




