第25話 「保存」
Ctrl+S。
実際のところ、そこに音は存在しない。
少なくとも物理的な現実世界において、電子の移動に固有の響きなどない。パソコンのスピーカーが電子音を鳴らすわけでもなければ、画面上にドラマチックなエフェクトやアニメーションが躍るわけでもない。ダイアログが一瞬だけ網膜をかすめ、次の刹那には何事もなかったかのように消え去る。ただそれだけだ。
しかし――レイの脳内のインデックスには、確かにその「音」が鮮明に刻まれていた。
Ctrl+S。保存。
それだけの、記号化された平坦な儀式。
午前二時四十六分。
YLSスタジオの片隅で、レイは憑りつかれたように原稿の修正を重ねていた。一本の主線を惹き、消しゴムツールで削り、再び描き直し、アンドゥで一手戻る。そしてまた線を重ねる。
その一連の動作の終着点には、決まってあのショートカットキーが待っていた。
Ctrl+S。保存。
この修羅場の佳境において、その左指の屈伸運動は、もはや肺呼吸と同じくらい無意識の領域へと組み込まれていた。
「……また押したでしょ、いま」
ソファーの肘掛けという、物理的に傾斜の酷い場所に無理やり頭を乗せているひよりが言った。他人が見ているだけで頸椎のあたりが痛くなりそうな、不条理極まりない寝相である。
「何が?」
レイは視線を液晶画面に固定したまま、そっけなく聞き返した。
「セーブ。さっきから左手が完全に痙攣してるじゃん」
レイは少しだけ左の指先を浮かせた。確かに、言われてみれば無意識にキーボードの端を叩いていた。十秒前にも押したし、その前にも押した。そして今、再び押そうとしていた。
「そんなに頻繁に保存して、何か世界が変わるわけ?」
「……変わらないけど、落ち着くから」
「出た、クリエイター特有のお守り理論」
レイは苦笑を浮かべたが、反論する言葉は見つからなかった。
物を作る人間という人種は、往々にしてそういう強迫観念じみた奇妙な悪癖を飼っている。意味もなくバックアップのフォルダ数を増やしたり、すでに確認したはずの入稿要項を何度も読み返したり、投稿完了した画面を不毛にリロードし続けたり。
そして――必要性のデッドラインを遥かに越えて、Ctrl+Sを連打する。彼らの左手は、常に目に見えないバグの恐怖と戦っていた。
トントン、と深夜の密室に律儀なノックの音が響いた。
ドアを開けて入ってきた直也は、いつものように自分の定位置であるパイプ椅子を引き寄せ、腰を下ろした。数分間、静かにレイの背中を見つめていた彼が、不意に手持ち無沙汰そうに口を開いた。
「……なぁ、レイ。お前、さっきからセーブの頻度、異常じゃないか?」
本日二人目の指摘だった。あるいは、このスタジオが立ち上がって以降、数え切れないほど繰り返されてきた不毛な指摘のバリエーション。
「そんなに多い?」
「この五分間で、少なくとも六回は叩いてるぞ」
「……よく数えてるね、直也くん」
「数えてるんじゃなくて、お前の左指のストローク音が静寂に響いてるんだよ」
ソファーの上で歪な姿勢を保ったまま、ひよりがクスクスと喉を鳴らした。
「直也くん、レイちゃんはね、『保存フェチ』なんだよ。電子のデータを確定させないと呼吸が止まっちゃう病気なの」
「違う」
「じゃあ、セーブ中毒」
「……それも違う」
否定の声は小さかった。実際のところ、ひよりの極論は彼女の精神の核心からそれほど遠い場所にあるわけではなかったからだ。
レイはモニターの中の、無数に重なったレイヤーの集積を見つめた。決して、キーボードを叩く感触が好きで連打しているわけではない。
彼女はただ、「失うこと」が病的に嫌いなだけだった。
かつて。本当に、一度だけ。
まだ『ARC Ⅰ』の初期、デジタル環境に移行したばかりの頃、PCの突然のフリーズによって数時間分の作業データが文字通り塵となって消え去った夜があった。失われたのは、たったの四時間か五時間分の労力に過ぎない。
しかし、その時に味わった、爪の先から血の気が引いていくような虚無感と絶望を、彼女の指先は十年が経過した今でも完璧に記憶していた。
描いて、保存。削って、保存。
ミリ単位の修正を施し、生存を確認するように、また保存。
そこに論理的な因果関係なんて存在しない。ただ、そうしてデータを「確定」させなければ、いつ目の前の四角い世界が裏切って崩壊するか、その恐怖から逃れることができなかったのだ。
「やっぱり、物を作る奴らはみんなそんな感じなのか?」
直也の素朴な問いに、床のヒトデになりかけているひよりが答える。
「大体みんな、信仰心が歪んでるからねえ。基本、誰も信じてないの」
「信じてないって、何をだよ」
「世界、とか、編集部、とか、自分の才能、とかさ」
「主語がデカいよ、お前は」
「……でも、パソコンの機嫌は信じてないかも」
レイのその小さな補足に、直也は降伏するように肩をすくめた。
技術的な話をすれば、今のソフトウェアには優秀なオートセーブ機能がついている。クラウドへの自動同期もあるし、バックアップファイルも多重に生成されている。客観的に見れば、データが完全に消失する確率なんて、隕石がスタジオに直撃する確率と大差ない。
それでもなお、彼女の左指はCtrl+Sを選択する。それはもはや論理の領域ではなく、一種の「祈り」に近かった。この不確かな物語が、どうか消えずにそこにあってくれますように、という、声にならない願いの反復。
レイは再びスタイラスを滑らせ、コマの片隅、読者の大半が視線すら向けないであろうモブの背景に、細いハッチングを一本だけ足した。誰も気づかない、誰も評価しない、自己満足の極みのような線。
そして――指先が、流れるようにキーを叩く。
Ctrl+S。
「ほら、またやった」
ひよりが容赦なく指摘する。
「今のは、ちゃんと絵に変化があったから」
「三分前も同じこと言ってたよ、レイちゃん」
言い返す言葉はなかった。直也の低い笑い声がスタジオのアンビエントに混ざり、レイもまた、見落としてしまいそうなほど小さな微笑を浮かべた。
窓の外の夜は、相変わらず穏やかな停滞を保っている。雨の気配はなく、時折遠くの深夜販売のトラックが通り過ぎる風切り音だけが、世界の解像度を辛うじて保っていた。
液晶モニターの放つ青白い光。点滅を繰り返すカーソル。剥がれかけの付箋。冷えきったマグカップ。そして、お世辞にも片付いているとは言えない乱雑なワークデスク。
すべてが、いつも通りの歪な日常の座標に収まっている。
そしてそのカオスの真ん中で、ただ一つの動作だけが、心臓の鼓動のように等間隔で繰り返されていた。
保存。
それは、物語を完結させるための前進ではない。あるいは、すべてを諦めて手を止めるための休止でもない。
明日も、その次の日も、この歪な戦場で「ただ描き続けるため」の、唯一の防衛策。少なくとも立花怜というクリエイターにとって、そのショートカットキーはそういう意味を持っていた。
彼女は再び、右手のペンを正しく指の間に挟み直した。一本の線を引く。修正する。ほんの数ミリ、完成という名の終着点へ向かって、泥臭く歩みを進める。
そして――。
Ctrl+S。
保存完了の小さな進捗バーが画面の右下に出現し、瞬きの間に消え去った。
跡形もなく、何の痕跡も残さない。けれど、その刹那の暗転が、毛羽立っていた彼女の神経を確かに安堵の海へと沈めてくれる。
ひよりはソファーの上で、今度こそ本格的に浅い眠りの淵へと沈み始めていた。直也はパイプ椅子に深く腰掛け、諦めたような、それでいてどこか優しい眼差しでモニターを見つめている。
時計の針は午前三時一分を指していた。原稿の終わりは、まだ見えない。
だからこそ、彼女は今夜も、この冷徹な電子の四角形のなかで、終わりのない祈りを捧げ続けるのだ。
Ctrl+S。




