第24話 「休息」
「一回、手を止めないと」
レイは、もう二十分以上も前からその思考を脳内で反芻していた。
しかし、右手に握られたスタイラスは未だに液晶の表面をせわしなく滑り続けている。頭のなかの命令と指先の運動が、完全に断絶していた。彼女はまだ、一秒たりとも休んでいなかった。
午前三時十八分。
YLSスタジオ。
モニターのキャンバスには、描きかけの二十七ページ目が相変わらず居座っている。そのベゼルの周囲を埋め尽くす付箋の群れ。そして、液晶のちょうどド真ん中――作業の邪魔になる最悪の特等席には、つい先ほど貼り付けられたばかりの純白のメモが堂々と主張を続けていた。
『絶対に休め』
太いマジックによる、大きな筆跡。嫌でも視界に入る配置。見落とすことなど絶対に不可能な、過去の自分からの強迫観念。
――そして現在にいたるまで、その命令は完璧に無視され続けていた。
「ただの紙の無駄遣いじゃん」
ソファーの上から、呆れたような声が降ってきた。
ひよりだ。今夜の彼女は極めて珍しいことに、ソファーを本来の用途、つまり「人間が横たわるための家具」として正しく使用していた。毛布の塊から、眠そうな目だけがこちらを覗いている。
「何が?」
「その真ん中の付箋。レイちゃんの網膜、それを通気性のいいメッシュか何かだと思ってスルーしてない?」
「見てるよ。ちゃんと視界に入ってる」
「入ってるだけで実行はされてないよね。かわいそうに、あの付箋。自分のアイデンティティを見失って泣いてるよ」
付箋にアイデンティティも涙腺もあるわけがない。……たぶん。
けれど、レイの胸の奥に、ほんの微小な罪悪感が芽生えたのは確かだった。彼女は一度、スタイラスをデスクの上に置いた。完全に、指先から離す。
五秒。十秒。十五秒。
そして、何事もなかったかのように再びペンを握り直した。
「……早すぎるでしょ」
ひよりがソファーから身を乗り出してツッコミを入れる。
「今のは、ちゃんとした休憩」
「クリエイターの『ちょっと休む』って、深海魚のまばたきくらい刹那的だよね。それ休憩って言わないから」
レイは言い返さなかった。というより、言い返すだけの言葉のストックがなかった。
作業をしているときの五分間は、砂時計の砂が落ちるように一瞬で消え去る。しかし、休憩しているときの五分間も、なぜか同じように短い。そして締切が迫っているときの五分間は、それらのどれよりも暴力的な速度で通り過ぎていく。時間という尺度は、人間の精神状態によってその伸縮率を自在に変える、極めて不条理なゴム紐のようだった。
トントン、と深夜の密室に小気味よいノックの音が響いた。
ドアを開けて入ってきた直也の手には、いつものようにコンビニのポリ袋が提げられていた。もはや誰も、なぜ彼がこの時間帯に必ずそれを持って現れるのかを問い詰めようとはしない。YLSスタジオにおいて、彼の買い出しは季節の移り変わりと同じくらい不可避な「自然現象」として組み込まれていた。
「お疲れ。まだやってる?」
「お疲れさま」
室内へ一歩足を踏み入れた直也は、即座にレイのモニターの真ん中に貼られた白い異物に目を留めた。
「……『絶対に休め』。いい言葉だな」
「でしょ? でもね直也くん、現在の達成率は驚異のゼロパーセントだよ」
ひよりが毛布の中から冷やかすように言った。
「ゼロパーセントかよ」
直也は苦笑し、レイは気まずそうに視線を泳がせた。
直也は何も言わず、提げていたポリ袋をレイの散らかったデスクの、僅かな隙間に置いた。
「じゃあ、今から強制的にパーセンテージを上げてもらうか。今日は特別に『休息』の差し入れだ」
「差し入れ?」
「これだよ」
袋のなかから現れたのは、三つのプラスチック容器だった。
コンビニのスイーツコーナーに並んでいる、ごく平凡なプリン。高級店のそれのような金箔が乗っているわけでもなければ、特別なこだわり卵が使われているわけでもない。安価で、どこにでもある、ただの砂糖と卵の塊だ。
それなのに、その黄色い立方体が視界に入った瞬間、スタジオの張り詰めていた空気が、目に見えて緩んでいくのが分かった。
「締切前だからこそ、脳に糖分が必要だろ」
直也がプラスチックのスプーンを配りながら言った。
「合理的な判断だね。直也くんにしては珍しい」
「一言余計なんだよ、お前は」
直也のトゲのない反論に、ひよりがくすくすと笑う。
レイは今度こそ、本当にスタイラスをデスクの奥へと押しやった。
プリンの薄いフィルムを剥がすと、パキッと小さなプラスチックの破裂音が静寂に弾ける。スプーンを差し込むと、冷やされた表面が心地よい抵抗感を伴って崩れた。冷蔵庫の冷気が、微かにスプーンの柄を伝わってくる。
一口、口に運ぶ。
ただ、甘かった。官能的な深みがあるわけでも、感動的な余韻があるわけでもない。しかし、午前三時を過ぎた閉鎖的な仕事場のなかで、その暴力的なまでの単純な甘さは、麻痺しかけていたレイの味覚と神経へ、驚くほどダイレクトに染み渡っていった。
「……美味しい」
呟きながら、彼女は咀嚼した。ひよりの口元にも黄色いカスタードがついており、直也もまた、パイプ椅子に腰掛けて静かにスプーンを動かしている。
会話はほとんどなかった。ただ、スプーンが容器の底を擦る小さな音だけが、スタジオのアンビエントに混ざり合っていく。
不思議な居心地の良さだった。
休息というものは、本来こういうものなのかもしれないとレイは思った。どこか遠くのリゾートへ行く必要もなければ、特別なヒーリングミュージックを聴く必要もない。ただ、進めるべき手を数分間だけ止めること。椅子に深く腰掛けること。些細な甘味を口に含むこと。そして、他愛のない他人の気配を、同じ空間に共有すること。
それだけの、中身のない空白の時間が、すり減ったクリエイターの器を満たしていく。
レイは、自分のデスクの隅にある空っぽのマグカップを見つめた。
コーヒーは冷めきって久しい。スタイラスは無造作に転がっている。モニターの中の原稿は、何一つとして進んでいない。抱えている問題は何も解決していないし、締切のデッドラインが後ろへ退いてくれたわけでもない。
それなのに、両肩の奥にずっしりと溜まっていた鉛のような重さは、先ほどよりも確実に軽くなっていた。論理的な説明はつかない。けれど、指先には確かに、新しい熱が戻りつつあった。
「どう?」
直也が空になった容器を片付けながら、何気なく尋ねてきた。
「何が?」
「その、強制イベントの効果は」
レイは少しだけ視線を泳がせ、それから小さく微笑んだ。
「……悪くない」
ひよりがソファーの上で、満足そうに毛布を揺らす。
「よかったねえ。これで真ん中の付箋も、成仏できるって実証されたわけだ」
「成仏はしないと思うけど」
「するよ、きっと」
誰もそれを科学的に証明することはできない。だからこそ、誰もその不条理を否定することはできなかった。
窓の外の夜は、相変わらず冷徹な静寂を保っている。時計の針は午前三時三十五分を指していた。気づけば、十五分以上の時間を、この他愛のないプリンの消費に費やしていたことになる。立花怜の修羅場における時間感覚としては、これは異例の「大休止」だった。
ワークデスク、付箋、冷えたマグカップ、未完成の原稿。
それらはすべて、先ほどと同じ座標で、静かに彼女の帰還を待っていた。急かすこともなければ、非難することもない。ただ、そこにあるべき背景として佇んでいる。
レイは椅子の背もたれから身体を離し、ゆっくりと立ち上がった。
まだ、描ける。今夜はもう少しだけ、物語の針を前に進められる気がした。休憩という名の空白は終わった。しかし、それが終わったからこそ、彼女は再び、戦場へと戻ることができるのだ。
液晶モニターが、再び彼女の視界を青白い光で満たす。
スタイラスを正しく指の間に挟み込み、カーソルの位置を確かめる。白いキャンバスの上に、迷いのない新しい軌跡が一本、鮮やかに走った。
Ctrl+S。
保存完了の電子音が、夜のスタジオに静かに響く。
画面の真ん中に貼り付けられた白い付箋は、相変わらず不格好に居座っていた。しかし、レイの目には、その傾いた紙切れが、先ほどよりもほんの少しだけ誇らしげに胸を張っているように見えた。




