第23話 「午前三時」
午前二時五十七分。
あと、三分。
レイは液晶モニターの右下、システムトレイの小さなデジタル時計へと視線を走らせた。特別な理由があったわけではない。ただ、時間の輪郭を無意識に確かめたかっただけだ。
画面の数字は依然として「02:57」のまま動かない。三十秒ほど作業を進め、もう一度視線を落とす。やはり、02:57。
「時間のギア、完全にニュートラルに入ってるよねえ」
床の底辺から、重力に逆らわない平坦な声が響いた。
ひよりだ。今夜の彼女は床の上に大の字、さながらヒトデのような姿勢で仰向けに転がっていた。睡眠科学の専門家が見れば、どのような脳内物質の分泌がその不条理なポーズを誘発したのか、深刻な議論が始まりそうな有り様だ。
「何が?」
レイはペン先を液晶に滑らせたまま聞き返した。
「時間。進むのをボイコットしてる」
レイはもう一度、時計を見る。
「まだ二時五十七分」
「ほらね」
ひよりは床に頭を打ち付けたまま、深く息を吐き出した。
「午前三時を迎える直前の三分間って、地球の自転速度が通常の三分の一くらいに落ちてる気がする。あの絶望的な長さ、何なんだろう」
「そこまでじゃないと思うけど」
「いや、体感としては一時間だよ。精神が時間の地層に埋もれていく感じ」
「大袈裟だな」
レイは苦笑したが、その言葉のニュアンスは少しだけ理解できた。
午前三時という時間帯には、確かに他のどの時間とも違う、奇妙な磁場のようなものが存在する。それは徹夜を日常とする表現者たちだけが、特権的に共有する世界のバグのようなものだ。
終電の喧騒はとうの昔に消え去り、スマートフォンの通知は完全に沈黙している。SNSのタイムラインも、まるで息を止めたように更新を止める。外の世界が完全に機能を停止し、世界に自分たちだけが取り残されたような錯覚。
だからこそ、午前三時の境界線は、重く、深く、他とは違う意味を持って迫ってくる。
レイは再びモニターの中の二十七ページ目へと意識を戻した。背景のディeral、吹き出しの配置、効果線の角度。遅々としてではあるが、キャンバスは確実に黒いインクによって埋まりつつある。だが、まだ終わらない。創作という泥臭い営みは、いつだってこの果てしない足踏みの連続だった。
トントン、と深夜のスタジオには少し場違いなほど律儀なノックの音が響いた。
ドアを開けて入ってきた直也の姿を見るなり、床のヒトデが声を弾ませた。
「ジャストタイミング」
「何がだよ」
直也はポリ袋を提げたまま、怪訝そうに眉をひそめた。
「午前三時。おめでとうございます」
直也が腕時計に視線を落とす。02:58。
「いや、まだ二分前だろ」
「誤差だよ、誤差。これより『午前三時の観測者たち』による定例ミーティングを執り行います」
「……いつの間にそんな不毛な組織が立ち上がったんだよ」
「三十秒前。私が法案を提出して、即日可決された」
完全にその場の思いつきだった。レイは堪えきれずに小さく吹き出す。
直也は呆れたように息を吐き、傍らのパイプ椅子を引き寄せて腰を下ろした。キィ、と金属が擦れ合う高い音が静寂を引っ掻く。数年前から使っている安物の椅子だ。最近、その悲鳴のような軋み音は一段と大きくなっていた。
けれど、誰もそれを修理しようとはしないし、新しいものに買い替えようともしない。YLSスタジオは、そういった「耐用年数をとっくに過ぎても、なんとなくそこに居座り続けている物品」で満ちていた。だらしがないと言えばそれまでだが、その壊れかけの日常が、三人の奇妙な居心地の良さを保証していることもまた事実だった。
直也はデスクの上に堆積したカオスを見つめた。飲みかけのマグカップ、丸まった付箋、アイディアの死骸のようなクロッキー帳、開かれっぱなしのパースの資料。そして、未だ完成に至らないデジタル原稿。
「で? 午前三時になると、何か特別なイベントでも発生するわけ?」
直也の素朴な疑問に、レイは数秒間、ペンを動かしながら考えを巡らせた。
何かが起きるわけではない。奇跡が起きることもなければ、原稿が自動で終わることもない。だが、完全に何もないかと言われれば、それも違う気がした。
「……静かになる」
それが、レイの脳裏から零れ落ちた最初の言葉だった。
直也は言われて、暗いガラス窓の向こうへと視線を向けた。雨は上がっている。幹線道路を走る車の残響さえも完全に途絶え、ただ深夜のエアコンのインバーター音だけが、世界の底冷えするような静けさを強調していた。
ひよりが床の上で、もぞもぞと頭の向きを変えた。
「午前三時ってさ……世界の解像度が急に落ちて、ただのラフスケッチみたいになるんだよね」
部屋に、再び平坦な沈黙が戻る。
直也は首を少しだけ傾げた。
「ラフスケッチって。どういう意味だよ、それ」
「要するに、まだ何もかもが未完成な感じ。夜としても中途半端だし、朝としても出来損ないでしょ。世界の骨組みだけが剥き出しになってるみたいでさ」
「全然分からん」
直也が即座に切り捨てる。しかし、
「……私は、なんとなく分かるよ」
レイのその言葉に、ひよりのほうが驚いたように目を丸くした。
レイはペンを持ったまま、窓の向こうの暗闇を見つめた。午前三時の街。人通りの途絶えたアスファルト、意味を失って点滅を繰り返す信号機の光、呼吸を止めたように黒いビル群。そして、夜とも朝ともつかない、曖昧に濁った空の色。
確かにそれは、まだペン入れの始まっていない、骨組みだけのラフスケッチに見えた。夜の終わりであり、朝の始まり。どちらの領地にも属さない、空白の境界線。
そしてレイは、その未完成な世界のあり方に、奇妙な救いを覚えていた。
なぜなら、目の前にある自分の原稿もまた、未完成のままだからだ。自分という人間もまた、何一つとして完成しておらず、暗闇のなかで道半ばに立ち尽くしている。
午前三時という時間は、この世界において、そういった「未完成なもの」「完璧になれないもの」に対して、ほんの少しだけ寛容で、優しい視線を注いでくれているような気がするのだ。
その時、モニターの隅の数字が、静かにその相貌を変えた。
「03:00」
三人は無言のまま、吸い寄せられるようにその数字を凝視した。
ファンファーレが鳴るわけでもない。光が弾けるわけでもない。ただ、1が0に変わった、それだけのことだ。それなのに、胸の奥に、ほんの微小な「達成感」の残渣が沈殿していく。
「おめでとうございます」
ひよりが床の上で、ぱちぱちと覇気のない拍手を送る。
「何がだよ」
「無事に午前三時のチェックポイントを通過しました。二人のクリエイターレベルが1上がりました」
「そんなシステム、俺の仕様書にはないんだけどな」
直也が苦笑いを浮かべ、レイも小さく微笑んだ。
彼女は再び、スタイラスを指の間で正しく握り直した。やるべき作業は山積している。締切という怪物は、一分一秒と確実に距離を縮めてきているし、二十七ページ目の余白は未だに白いままだ。
けれど、午前三時の境界線を越えたあとのスタジオには、いつもと違う緩やかな空気が漂い始める。まるで、これ以降の時間はすべて「ボーナスステージ」であるかのような、奇妙な全能感。昨日からの地続きの延長線であり、明日から少しだけ前借りした、誰にも見つからない秘密の時間。論理的な言葉では説明がつかないが、肌感覚として確かにそれは存在していた。
レイは液晶の上に、新しく一本の線を引いた。続いて、もう一本。モニターの放つ青白い残光が、彼女の疲弊した指先を等しく照らし出す。
傍らに置かれた、すっかり温くなったマグカップを引き寄せ、僅かに口に含んだ。熱は失われていたが、深夜の乾いた喉を潤すには、それで十分すぎるほどだった。
YLSスタジオは、再び静かな日常の境界線へと収束していく。
優しく、それでいてどこか冷徹な、いつもの沈黙。
Ctrl+S。
保存完了のインジケーターが画面の隅で点滅し、消える。
レイが次のコマへとペン先を向けたとき、システムトレイの時計は、すでに「03:02」を指して、冷酷に、だが優しく時を刻み始めていた。




