第22話 「作業用BGM」
始まりは、ただの沈黙だった。
YLSスタジオの夜は、いつだって過剰なほどに静まり返っている。モニターが放つ微光、キーボードを叩く乾いた打鍵音、マウスの微細なクリック音。そして、液晶タブレットの表面を滑るスタイラスの摩擦音。深夜の仕事場に必要な音響は、本来それだけで十分に事足りるはずだった。
しかし、いつの頃からだろうか。誰が言い出すでもなく、その静寂の隙間に、かすかな旋律が居座るようになったのは。
午前一時五十六分。
レイの作業モニターの隅で、小さな音楽プレイヤーのガジェットが発光している。総再生時間、二時間十三分。すでに同じプレイリストが、何度もループ再生を繰り返していた。いや、正確に言うならば、このスタジオの夜に流れるのは、ほとんど毎日のように変わり映えのしない、お決まりの曲たちだった。
「またそれ流してんの」
ソファーの背もたれの上に、上下逆さまの状態で頭を乗せているひよりが言った。人間工学という概念に対する、極めて挑戦的な姿勢の寝相である。
「何が?」
レイは視線を作画データに固定したまま聞き返した。
「その、いつもの常連プレイリスト。もう耳にタコができる通り越して、タコが住み着きそうなんだけど」
「……落ち着くから、これでいいの」
「もう何百回も聞いたでしょ、それ」
「たぶん、四桁は行ってる」
「飽きないのが不思議だよ、本当に」
ひよりは毛布の隙間から、理解しがたいものを見る目でレイの背中を見つめた。
クリエイターという人種は、往々にしてそういう奇妙な固執を見せる。同じ飲料、同じ椅子、同じショートカットキーの配置。変化を嫌う頑固な老人のように、自らの周囲を徹底的に「不変」で満たそうとするのだ。その手で生み出しているものは、常に新しい物語だというのに、その営みを支える環境には、絶対的な既視感を求める。その矛盾が、レイにとっては心地よかった。
トントン、と小気味よいノックの音が深夜の空気を震わせた。
ドアを開けて入ってきた直也の手には、もはや彼の身体の一部と化しているコンビニのポリ袋が提げられている。
「お疲れ。まだやってる?」
「お疲れさま」
直也が室内へ一歩足を踏み入れた、その数秒後だった。彼は不意に足を止め、怪訝そうに耳をすませた。
「ん?」
「どうしたの?」
「いや、ちょっと待って……。この曲、なんか聞き覚えがあるな」
レイがようやくペンを止め、振り返る。
「たぶんね」
「いや、たぶんっていうか、確実に何度も聞いてる気がする。デジャヴにしては鮮明すぎる」
「そりゃそうでしょ、直也くん」
ソファーの上で逆さまになったまま、ひよりがニヤニヤと笑った。
「直也くんがここに来るとき、レイちゃんは大体そのアルバムを流してるからね。脳に直接刷り込まれてるんだよ」
直也は得心のいったように苦笑した。確かに、いつYLSスタジオを訪れても、そこにある空気は驚くほど一貫していた。激しいロックでもなければ、主張の強いポップスでもない。静かで、平坦で、景色の邪魔をしないアンビエント。
「本当に好きなんだな、こういうの」
「うん」
「どこがそんなに気に入ってるわけ?」
レイは少しだけ首を傾げ、思考を巡らせるように視線を彷徨わせた。
「……分からない」
「分からないって、自分で流してるんだろ」
「気づいたら、いつもこれを選択してるだけ。理由とかは、特にない」
表現者の説明としてはひどく要領を得ないものだったが、それが彼女の本音だった。言葉で論理的に説明できないからこそ、彼女はその音に身を委ね、戻ってきてしまうのだ。世の中には、説明がつかないからこそ機能する依存というものがある。
ひよりがソファーの上で身を捩り、毛布の中から白い腕を突き出した。
「でもさ、よくよく考えると、作業用BGMって概念そのものが不条理だよね」
「不条理?」
直也が缶コーヒーをレイのデスクに置きながら問い返す。
「だってさ、流してる本人も含めて、誰も真面目に聞いてないじゃん」
スタジオに、一瞬の静寂が戻る。言われてみれば、その通りだった。
音楽は確かに流れていて、鼓膜には届いている。しかし、彼らは誰も「鑑賞」はしていない。一度作画の集中モードに入ってしまえば、それらの旋律は意識の表層から綺麗に消えてなくなる。気づけば次の曲へ移っており、気づけば一時間が時計の針ごと消滅している。
作業用BGMは、決して主役にはなれない。それは音楽というよりも、むしろ「空気」の成分に近い。常にそこに存在しているが、存在しているときには誰もそのありがたみに気づかない。
「でもさ」
直也が自分の缶コーヒーのプルタブを弾きながら言った。
「それが完全に消えたら、やっぱり息苦しくなると思うよ」
レイは手元の黒いマグカップを見つめた。
原稿、フォルダ、剥がれかけの付箋、冷えたコーヒー。そしてモニターの脇で静かに振動している、安物の小さなスピーカー。
彼女は静寂を愛している。だが、「静かであること」と「無音であること」は、決定的に違っていた。世界のすべての音が途絶えた完全な無音のなかに放り込まれたら、彼女の脆弱な精神は、目の前の白いキャンバスの質量に押し潰されてしまうだろう。
「……そうかもね」
レイは小さく呟いた。
ひよりがソファーの上で満足そうに頷く。
「つまりさ、作業用BGMって観葉植物みたいなもんなんだよ。なくても人間は死なないし、光合成で酸素を供給してくれるわけでもない。でも、部屋の隅に緑があると、なんとなく理性が保たれるでしょ。あの感じ」
その奇妙な比喩に、反論する者は誰もいなかった。深夜の脳には、その程度の緩い不条理がちょうどいい具合に収まる。
プレイヤーのトラックが変わり、また次の曲が始まる。彼らは誰も、さっきまで流れていた曲のメロディを正確に思い出すことはできなかった。しかし、部屋の空気の密度が、その音律によって緩やかに調律されていることだけは確かだった。
創作という営みも、それによく似ていた。
これまで液晶の上に引いてきた何万本という線の、その一本ずつの角度をレイは覚えていない。マウスをクリックした回数も、キーを叩いた衝撃の記憶も、すべては時間の砂に埋もれて消えていく。しかし、そうして積み重ねてきた不毛とも思える膨大な時間の堆積だけは、確実にこの原稿の上に「質感」として残されているのだ。
レイは再びスタイラスを握り直し、キャンバスにペン先を滑らせた。二十七ページ目が、ほんの数ミリだけ完成へと近づく。
音楽が流れ、夜が更け、作業が進んでいく。
YLSスタジオは、いつもの小さな音たちで満たされていた。
クリック音、打鍵音、ペンの摩擦、静かな呼吸。そして、意識の裏側で漂うかすかなアンビエント。
どれ一つとして、この夜の主役ではない。けれど、もしその中の一つでも欠けてしまえば、この歪な均衡は一瞬で崩れ去ってしまう。
点滅するカーソルが、新しい線を要求している。プレイリストの終わりはまだ遠く、原稿の終着点もまだ見えない。
だからこそ、この夜はまだ、当たり前のように続いていく。
Ctrl+S。
保存完了の電子音が、静かな旋律のなかに溶けるようにして消えた。次の曲が、また何も言わずにスタジオの空気を満たし始めている。




