第21話 「作業机」
ワークデスクというものは、いつだって残酷なほどに正直だ。
人間は言葉で嘘をつく。数字は時として事実を歪める。そして記憶という機能は、それらよりも遥かに脆く、当てにならない。だが――作業机だけは、決して嘘をつかない。主人がどれほど虚勢を張ろうとも、その表面に堆積した混沌が、現在の精神状態を冷徹に証明してしまう。
午前二時九分。
YLSスタジオの片隅で、レイはその夜、初めて完全に手を止めた。
理由はひどく世俗的なものだ。ついさっきまで右手の指先に馴染んでいたはずのデジタルペンが、忽然と姿を消したのだ。
「……おかしいな。今、確かにここにあったのに」
レイはデスクの上を視線でなぞった。作画用の資料、剥がれかけの付箋、飲み干した缶コーヒー、キャップのないUSBメモリ、アイディアを書き殴ったクロッキー帳。そして、スマートフォンの充電ケーブル、液晶タブレットの給電用コード、もはや何の端末に繋がっていたのかさえ判別のつかない、正体不明の細い配線類。
それらの隙間をいくら凝視しても、彼女が今もっとも必要としているプラスチックの棒は、どこにも見当たらなかった。
「机に捕食されたんだよ」
椅子の下の、きわめて低い座標からくぐもった声が響いた。
ひよりだ。今夜の彼女はソファーにすら辿り着けず、デスクチェアの脚の隙間に丸まって床に転がっていた。もはやその異常な配置に対して、驚きや疑問を抱く者などこのスタジオには一人もいなかった。
「机は生物じゃない」
「クリエイターの机は生きてるの。意思を持ったアメーバみたいなもん」
「生き物じゃない」
「じゃあ聞くけどさ」
ひよりは毛布の隙間から、濁った目で天井を見上げた。
「そのモニターの横に転がってる、謎の黒いUSB、中身に何が入ってるか言える?」
レイは言われて視線を走らせた。確かに見覚えのある筐体だ。過去に数千回は視界に入れた記憶がある。だが、
「……分からない」
「ほらね」
「それは、私の管理不足」
「違うよ。机がそのメモリの文脈を消化しちゃったの。一種の消化器官さ」
レイには、それ以上言い返すだけの脳の余力が残っていなかった。
トントン、と小気味よいノックの音が静寂を破る。
ドアを開けて入ってきた直也は、一歩踏み出した位置で、あからさまに足を止めた。
「お疲れ。……なんか、また一段と増えたか?」
「何が?」
「全部だよ」
直也は呆れたように肩をすくめ、レイのデスクを遠巻きに見つめた。
確かに、増えていた。かつて『ARC Ⅰ』と呼ばれたあの激動の時期と比較しても、物品の密度は確実に上がっている。一つひとつは、ほんの些細な小物に過ぎない。しかし、仕事が増え、ネームが増え、修正が積み重なるのと完璧に比例して、机の上の堆積物はその地層を厚くしていく。
この平らな板の上には、彼女が物語を紡いできた日々の痕跡が、文字の形を持たない記録としてすべて刻み込まれていた。
直也は手にしたコンビニのポリ袋を置くための、数センチ四方の平地を探そうと視線を彷徨わせた。探して、さらに探して、やがて諦めたように息を吐く。
「コーヒー一缶置くスペースもありゃしない」
「あるよ。ちょっと待って」
レイは手近な背景資料の束を、数センチだけ横にスライドさせた。その下に、手付かずの木目が僅かに露出する。
「ここ」
「それはスペースとは言わない。ただの掘削作業だろ」
すかさずツッコミを入れる直也の横で、椅子の下に挟まったひよりが、くくくと喉を鳴らして笑った。
「デスクの考古学だね」
「何の遺跡だよ」
「修羅場文明の末期。そろそろ滅亡するタイプの集落」
「笑えないからやめろよ」
直也のセリフに、レイも小さく唇の端を緩めた。
確かに客観的に見れば、この空間は惨憺たる有り様だ。整頓という概念からは最も遠い場所にあり、お世辞にも効率的な環境とは言えない。だが、不思議と――レイはこの乱雑さを、心の底から嫌悪することはできなかった。
右手を伸ばせば必要なパースの資料があり、左手の下には直前のラフスケッチが控えている。モニターの周囲を囲む付箋は、彼女の強迫観念を一時的に肩代わりしてくれる外部メモリだ。常用しているメインのペン、予備のペン、さらにその予備のペン。……そして、今まさに紛失している真のメインペン。
他人の目にはただのカオスに映るだろうが、レイにとっては、このカオスのどこに何があるのか、その『重力』のようなものを皮膚感覚で把握していた。……たぶん。
「作業机ってさ、面白いよな」
直也がふと、缶コーヒーの表面に指を這わせながら呟いた。
「何が?」
「持ち主の、頭の中身をそのまま引き出したみたいに見える」
スタジオに、一瞬だけ深い沈黙が降りてきた。
レイはもう一度、目の前の光景を見つめ直した。確かに、その通りかもしれない。
世の中には、一枚の紙さえ残さない潔癖な机もある。整然と機能美が並ぶ机もある。そして、このように境界線が決壊して、物品が溢れかえっている机もある。
表現という孤独な作業に向き合っているとき、その空間は持ち主の精神そのものを宿してしまう。今、彼女の目の前にあるこの混沌は、他でもない『現在の立花怜』そのものだった。
未だ完成せず、物語の道半ばにあり、必死に体裁を整えながらも、泥臭く前へ進もうと足掻いている。少しだけ散らかっていて、少しだけ焦燥を孕んでいて、それでも決して歩みを止めない。そんな歪な自画像が、そこに転がっている気がした。
その時、椅子の下の暗がりから、ひよりの手がにょっきりと突き出された。その細い指先が、何かを握りしめている。
「発掘成功」
それは、失われていたはずのデジタルペンだった。
数秒間、誰も言葉を発しなかった。
「……なんで、そこにあるの?」
レイが呆然と尋ねる。
「さあ? 分からない」
「分からない、じゃないでしょ」
「寝返り打ったら、なんか毛布の中に混ざってた。新種の寄生虫かなんかじゃない?」
「そんなわけないだろ。……っていうか、お前が巻き込んだだけだろそれ」
直也がこらえきれずに吹き出す。ひよりは悪びれる様子もなく、ペンをレイへと差し出した。
「というわけで、机に食われる前に、私に食われてたみたい」
「食べてない」
「比喩表現だよ、レイちゃん」
「知ってる」
レイは数時間ぶりに、自分のペンを右手に取り戻した。
プラスチックの軸は、ひよりの体温を吸って妙に生温かかった。不快ではない。むしろ、そのあまりにも人間味のある温度が、凍りついていた指先の感覚をじんわりと解きほぐしていく。気付けば、レイの唇の端は自然と上を向いていた。
机の上は相変わらず散らかったままだし、締切という怪物はすぐ背後に迫っている。やるべき仕事の総量は、目眩がするほどに残されていた。
けれど――彼女はこの、どこか歪で、それでいて奇妙に温かい深夜の時間を、どうしても嫌いにはなれなかった。
レイはスタイラスを正しく指の間に挟み、液晶画面へと向き直った。モニターの白い光が、カオスを湛えた机上を等しく照らし出す。
付箋、資料、空き缶、配線、未完成のスケッチ。それらすべてが、彼女の戦友のようにそこに佇んでいた。
未だプロセスの途上にある、一枚の机。
未だ終わりの見えない、長い夜。
そして――未だ完成に至らない、自分という名の不完全なクリエイター。
点滅するカーソルが、次の線を要求するように震えている。白いキャンバスの上に、新しいインクの軌跡が迷いなく刻まれた。
Ctrl+S。
電子音が静かに響き、データが更新される。
窓の外の夜はまだ深く、そして彼女のワークデスクは、相変わらず愛おしいほどに散らかったままだった。




