第20話 「付箋」
レイは、自分が最初の一枚をどこに貼り付けたのか、もう思い出せなかった。
気づいたときには、その小さな黄色い紙切れはすでにそこに居座っていた。そしてさらに気づいたときには、それらは恐るべき繁殖力で領地を拡大していた。
YLSスタジオのレイのデスク周りは、今や付箋のモザイク画のようになっている。液晶モニターのベゼル、スピーカーの側面、デスクライトの支柱、ペンタブレットのすぐ脇。時には壁に、時には彼女自身の部屋着の袖口にさえ、それは躊躇なく貼り付けられていた。
「表現者の記憶力なんてものは、泥水より信用ならない」
レイは誰よりもその冷酷な事実を理解していた。だからこそ、彼女の周囲はこうして外部記憶装置によって埋め尽くされている。
午前一時三十四分。
レイの視線は、モニターの左隅に貼られた一枚の付箋に固定されていた。
『背景 直す』
乱雑な筆跡を数秒間凝視したあと、レイはぽつりと呟いた。
「……どこの背景だっけ」
記憶はない。記録だけが残っている。過去の自分が残した警告の弾丸は、未来の自分という標的を正確に撃ち抜いたものの、肝心の装薬が抜けていた。メモは存在するのに、そのメモが指し示す文脈は綺麗に消失している。完全な因果の逆転だった。
そのすぐ隣には、さらに短いメッセージが躍っている。
『あとで修正』
「……だから、何をだよ」
主語も、対象も、そこには存在しない。あるのはただ、過去の自分から未来の自分へ丸投げされた、無責任な遺言だけだ。問題は、その遺言を受け取った未来の自分が、暗号解読のスキルを完全に持ち合わせていないことだった。
「過去のレイちゃんって、本当に詐欺師の才能あるよね」
床の底辺から、くぐもった声が這い出してきた。
ひよりだ。今夜の彼女は一段とアクロバティックな寝相を披露しており、ソファーとローテーブルの僅かな隙間に綺麗に挟まっていた。どうすればそんな物理法則を無視した姿勢に行き着くのか、誰にも分からない。
「……今さら気づいたの?」
「未来のレイちゃんを完璧に裏切るスタイル。悪質極まりないじゃん」
「最悪だよね」
「うん、最悪」
レイは自嘲気味に唇の端を上げ、モニターからその一枚を剥ぎ取った。
粘着力の弱まった紙の端が、乾燥した冬の葉のように丸まっている。それが、その付箋がどれほど長い間、その場所で時間を吸い込んできたかを生々しく物語っていた。作業に没頭する時間。物語を紡ぐ時間。ただ生活を消費する時間。
付箋というツールは、実に奇妙な存在だとレイは思う。ただの薄っぺらい紙切れに過ぎないのに、そこには確かに、過去の自分が置いた時間の澱が定着しているのだ。
トントン、と小気味よいノックの音が響いた。
ドアを開けて入ってきた直也は、デスクの惨状を目にした瞬間、あからさまに眉の根を寄せた。
「お疲れ。……また増えたか?」
「何が?」
「その、黄色い壁」
レイは言われて初めて、自分のデスクを客観的に見回した。
確かに、増えていた。数日前とは比較にならない密度で、視界のあちこちが黄色く染まっている。だが、それらがいつ、どのようなプロセスで増殖したのか、当人には全く自覚がない。
作業の合間に、忘れないように一枚。別の懸念事項が浮かんで、さらにもう一枚。また一枚。そうして強迫観念に突き動かされるように手を動かしているうちに、スタジオの壁面は徐々に黄色のモザイクに浸食されていったのだ。クリエイターという生き物の生態は、大抵において視覚的なカオスを伴う。
「……それ、全部必要な情報なのか?」
直也が呆れ半分で尋ねてくる。レイは少しだけ視線を彷徨わせた。
「たぶんね」
「たぶん?」
「半分くらいは」
「残りの半分は?」
「もう、何が書いてあるか忘れた」
「じゃあ意味ないだろ」
意味はある、とレイは心のなかで反論した。……たぶん。少なくとも、そう信じたかった。ただ、それを直也のような合理主義者に説明するだけの言語化能力を、今の彼女の脳は持ち合わせていなかった。
その時、隙間に挟まっていたひよりが、不意に一本の指を突き出した。モニターの最下部、ベゼルの隅にひっそりと貼り付けられた、毛色の違う青い付箋を指している。
そこに書かれていたのは、極めて簡潔な単語だった。
『休む』
三人の視線が、その青い一点に集まる。
数秒の、奇妙に重い沈黙が流れた。パソコンのファンが発する低い唸りだけが、その沈黙の輪郭をなぞっていく。
「それ、一回も実行されたことないよね」
ひよりが容赦のないナイフを突き立てた。
「……うん」
「完全にオブジェクトと化してるじゃん」
「……うん」
その青い付箋は、すでにかなりの星霜を経ていた。インクは退色し、紙自体もスタジオのヤニと埃を吸って、くすんだ灰色に近い青に変色している。それが何週間、あるいは何ヶ月前からそこにあるのか、もはや誰も記憶していない。
ただ一つ確かなのは、その付箋が貼られて以降、一度としてその指示が遂行された形跡はないということだ。
レイは小さく、吐き出すような笑い声を漏らした。
「たぶんね、これが世界で一番、私に無視されてる言葉だと思う」
「一番大事そうなのに、皮肉だな」
直也が缶コーヒーのプルタブを引き絞りながら、苦笑を混ぜて言った。
クリエイターという人種は、線の修正を決して忘れない。締切のデッドラインを決して忘れない。更新のスケジュールを決して忘れない。それなのに、なぜか「自分が人間として呼吸を整えること」だけは、驚くほど簡単に忘却の彼方へ放り出してしまう。実に歪な構造だった。
レイは手を伸ばし、その古びた青い付箋をベゼルから剥ぎ取った。指先でその軽さを確かめたあと、彼女は未開封の新しい付箋の束から、眩しいほどの純白の一枚を千切った。
黒の油性ペンを握り、太い筆跡で、以前よりもずっと大きな文字を書き殴る。
『絶対に休め』
そしてレイは、その白い紙切れを、液晶モニターのちょうど真ん中――作業中のキャンバスのド真ん中に、堂々と貼り付けた。
「……おい。それ、思いっきり邪魔だろ」
直也がすかさずツッコミを入れる。
「邪魔」
「じゃあ何でそこに貼るんだよ。作業できないだろ」
「そこに貼らないと、見ないから」
レイの返答は、不条理なようでいて、このスタジオにおいては至極まっとうな論理だった。
往々にして、人間にとって最も重要な事象ほど、最も視界を遮る場所に配置しなければならない。そうしなければ、目の前の「創作」という名のブラックホールに、一瞬で意識を飲み込まれてしまうからだ。
レイは、画面の真ん中で不格好に主張する白い付箋を見つめた。白い紙。黒い文字。少しだけ右上がりに傾いている。
普段の彼女であれば、そのミリ単位の傾きさえも気になって、すぐに貼り直していただろう。だが、今夜は不思議と、その不完全さを許容できる気がした。完璧でなくてもいい。ただそこに存在するだけで、十分な日もある。
カチリ、と静かなクリック音が響く。窓の外の雨は、いつの間にか完全に上がり、静まり返った夜気がガラスの向こう側に張り付いていた。モニターの放つ青白い残光は変わらないが、デスクの上の風景だけが、僅かにその相貌を変えている。
YLSスタジオは、昨日よりも確実に散らかり、そして――いつもと同じように、ほんの僅かだけ前へと進んでいた。
Ctrl+S。
保存完了の電子音が、静寂に消える。
画面の真ん中に貼り付けられた白い付箋を、レイはもう一度、今度はしっかりと視界に収めてから、ゆっくりとペンを置いた。




