第19話 「雨音」
レイは雨の音で、現実に引き戻された。
あるいは正確に言うならば、彼女は最初から眠ってなどいなかった。右手にスタイラスを握り込んではいたものの、その視線はいつの間にか、数インチ先の液晶画面を通り抜けて窓硝子の向こうへと向けられている。
午前二時五十八分。
いつから降り始めたのかは分からなかった。気づいたときには、雨はすでに世界の背景としてそこに居座っていた。街灯の光を乱反射させながら、水滴が硝子の表面をゆっくりと滑り落ちていく。まるで誰かが、途方もない時間をかけて極細の主線を一本ずつ、丁寧に引き重ねているかのような光景だった。
YLSスタジオは静まり返っていた。いや、むしろいつもより、ほんの少しだけ賑やかかもしれない。今夜のこの空間には、雨という闖入者がいる。
タブレットを擦る芯の音。パソコンのファン。インバーターのハミング。そして、雨音。深夜の仕事場に、目に見えない同居人がもう一人増えたような、そんな奇妙な錯覚を覚える。
レイは作業を止めた。ほんの数秒、あるいは十数秒。窓の外を凝視し、それから思い出したようにキャンバスへと視線を戻す。数本の線を引いては、また気もそぞろに硝子の向こうを見やる。
「そんなんじゃ、遅々として進まないよ」
床の底辺から、くぐもった声が這い出してきた。
ひよりだ。今夜の彼女は防衛体制を強化したらしく、足元から頭のてっぺんまですっぽりと毛布の繭に身を隠している。
「進んでる」
「一分間に二本しか線が増えてない。それを世間では足踏みって言うの」
「ゼロよりはマシ。前進のうち」
「雨の日のレイちゃんは、絶好の観察対象だからねえ。脳のメモリの半分くらいが雨音にもってかれてるでしょ」
「……やめて」
毛布の隙間から、クスクスと湿った笑い声が漏れた。
昔から、雨という現象を毛嫌いしたことはない。かと言って、特別な愛着があるわけでもなかった。ただ、雨が降ると、世界全体のボリュームが一段階絞られたように静かになる。その感覚だけは悪くないと思っていた。
遠くを走る車のエンジン音が遠のき、人間の気配が希薄になる。窓の向こうの景色は、水滴のプリズムによってすべてが曖昧に融解していく。そしてレイは、その「曖昧さ」こそを好んでいた。
創作という営みも、本質的にはそれに酷似している。まだ輪郭の定まらない未分化の何かを暗闇から手探りで引き揚げ、少しずつ、この世界に形を与えていく。硝子を叩く不規則なリズムを見つめるたび、彼女の思考はいつもその砂上の楼閣へと行き着くのだった。
トントン、と湿り気を帯びたノックの音が響いた。
ドアを開けて入ってきた直也の肩は、心持ち色が変わる程度に濡れていた。
「お疲れ。まだ起きてる?」
「直也くん、傘忘れたの?」
ひよりが毛布の繭を少しだけ緩めて尋ねる。
「いや、持ってたけど」
「じゃあ、敗北したんだ」
「雨相手に勝ち負けがあんのかよ」
「完敗じゃん。オーラで分かる」
確かに、彼のウインドブレーカーの表面には、弾かれきれなかった微細な水滴が無数に付着していた。髪の毛先も少し束になっており、提げているコンビニのポリ袋にさえ、外の雨の痕跡が残っている。
彼が室内へと一歩踏み入れた途端、閉鎖されていたスタジオの空気に、容赦のない湿度が混入した。
アスファルトが濡れた匂い。夜の風。そして、今しがた閉じられたばかりの傘が放つ、特有の陰鬱な残香。
レイは無意識にその匂いを肺に吸い込んだ。決して不快ではなかった。むしろ、張り詰めていたスタジオの空気が、外の現実によって適度に薄められるような感覚があった。
「外、酷い?」
レイが尋ねると、直也は濡れた前髪を無造作に掻き上げながら窓へ視線を向けた。
「思ったより本降りだな。……でも、悪くない」
三人はしばらくの間、それぞれの位置から窓の外の暗闇を見つめていた。
雨は何も主張しない。誰かに見せるためでもなく、誰かから評価を受けるためでもなく、ただ重力に従って、淡々と地表へと落下し続けている。その無目的な継続性が、静寂のなかで異様な存在感を放っていた。
「雨ってさ、ちょっとクリエイターに似てるよね」
ひよりが毛布の中から、ぽつりと呟いた。
「どういう意味だよ」
直也が缶コーヒーのプルタブに指をかけながら聞き返す。
「誰が見てようが見てまいが、ただ勝手に降り続いてるところ。自己完結の極みっていうかさ」
部屋に再び、雨音だけが残される。
レイは硝子に映る自分の顔を見つめた。確かに、そうかもしれない。
自分たちの描いた絵が、何千、何万という人間の目に触れて歓声を浴びる日もあれば、誰の視界にも入らず、ただ電子の海の底に沈んでいく日もある。熱狂的なリプライが届く日もあれば、ただ不気味なほどの無反応が広がる夜もある。
それでも、自分たちはペンを握り続ける。線を引く。物語を先へと進める。
そこに明確な、他者を納得させられるだけの理由なんて存在しない。ただ「そうせずにはいられない」という、因果な性質だけが自分たちを突き動かしている。まるで、雲が重くなって雨を降らせるように、ただそれだけのことなのだ。
スタイラスの先端が、再び液晶の表面で小さな摩擦音を立てた。白いキャンバスの上に、新しい一本の線が刻まれる。
一歩、また一歩。空白だった四角い世界が、墨の黒によって侵食されていく。
窓の外では雨が降り続き、デスクの上では終わりのない原稿が続いている。どちらもまだ、完成という名の終着点には遠い。
カチリ、と直也が缶コーヒーを開ける金属音が響いた。ひよりは満足したように再び毛布の繭へと沈み込み、レイは黙々と手を動かす。
雨の音は、どこまでも平坦だった。彼女を追い詰めることもなければ、その労をねぎらうこともしない。ただ、冷徹な一定のビートを刻み続けている。しかし、その絶対的な無関心が、今のレイには何よりも救いのように思えた。
点滅するカーソル。硝子に反射するモニターの青白い残光。その向こう側で、都市の歪なネオンが水滴に滲み、境界線を失って美しく溶けていく。
レイは最後の仕上げを終え、流れるような動作でショートカットを叩いた。
Ctrl+S。
保存完了のシグナルが網膜をかすめ、消える。
外の世界では、雨がまだ、飽きもせずにアスファルトを叩き続けていた。




