第18話 「珈琲」
午前二時二十一分。
YLSスタジオは、どこか現実味を欠いた穏やかな光に満たされていた。
メインの液晶モニター、手元を照らすデスクライト、そして充電器に繋がれたままのタブレット。それぞれが放つ、僅かに波長の違う白が狭い室内で交錯している。窓の向こうには底深い夜が広がっており、周囲のマンションの明かりは大半が落ちていた。この時間になってもまだ目を覚ましているのは、おそらく世界のバグのような、ごく一部の表現者たちだけだろう。
レイは右手でスタイラスを走らせながら、無意識に左手を伸ばしてデスクの脇のマグカップを掴んだ。しかし、傾けた陶器から口元に届くものは何もない。底にへばりついた浅い澱すら、とっくに飲み干されていた。
最後に口をつけたのがいつだったか、記憶のインデックスを遡っても見当たらない。残されているのは、中身を失ってただ冷たくなった器だけだ。レイは数秒間、その空っぽの底を見つめていたが、やがて諦めたように重い腰を上げた。
「燃料切れ?」
低い位置から、掠れた声が降ってきた。
ひよりだ。今夜はソファーにすら移動するのを億劫がったらしく、コピー用紙の空き箱を枕代わりにして床に直に転がっている。
「うん」
「コーヒー、絶滅した?」
「絶滅した」
「クリエイターにとっての第一種主燃料なのにね」
「車みたいに言わないでよ」
「似たようなもんでしょ」
ひよりは毛布の境界線をさらに引き上げ、眉間をすぼめた。
「燃料が切れたら、途端にプロットの挙動が怪しくなるんだから。自覚ない?」
「……そこまで酷くない」
「本当に?」
レイは反論を試みようと脳内の言葉を探したが、適切な語彙が見つからず、結局は黙ることを選んだ。
「ほら、図星じゃん」
毛布の奥でひよりが満足そうに鼻を鳴らす。確かに、言い返すだけの論理を持ち合わせていなかった。
レイはスタジオの隅にある、給湯室とも呼べないような狭いキッチンスペースへと足を向けた。スチールラックの上には、雑多なインスタントコーヒーの袋が並んでいる。輪ゴムで留められた使いかけのパッケージ、いつぞやの残りのスティックコーヒー、そして賞味期限の印字がとうに怪しくなっている出所不明の瓶。管理という概念をどこかに置き忘れてきた、いかにも零細創作スタジオらしい有り様だった。
電気ケトルのスイッチを押し下げると、小さなパイロットランプがオレンジ色に灯る。静寂のなかで、やがて水が加熱される特有の、低く微細な融解音が響き始めた。外の世界が寝静まったこの空間では、そんな些細な音さえも奇妙に鼓膜へと染み込んでくる。
マグカップに黒い粉末を落とし、沸騰したての熱湯を注ぎ込む。途端に、湿度を含んだ苦い香気があたり一面に膨らんだ。
不思議なものだと、レイは思った。まだ一滴も口にしていないというのに、その匂いを肺に吸い込んだだけで、毛羽立っていた神経の角がほんの少しだけ丸くなる。液体そのものの効能ではなく、もしかしたらこの「儀式」のプロセス自体に、人間を安堵させるシステムが組み込まれているのかもしれない。
その時、玄関のドアのラッチが静かに外れる音がした。
「お疲れ。まだやってる?」
入ってきたのは、いつものようにコンビニのポリ袋を提げた直也だった。
「また来たんだ」
ひよりが床から顔半分だけを出して、デジャヴを覚えるようなセリフを吐く。
「悪かったな。どうせ起きてるだろうと思って」
直也は苦笑いしながら、ポリ袋から一本の缶コーヒーを取り出した。金属質の冷たい肌が、室内の光を反射する。
「これ、差し入れ」
レイは新しく淹れたばかりのマグカップを掲げ、苦笑を返した。
「……ちょうど、作っちゃった」
「あ」
「タイミング悪いね」
「本当に申し訳ない……」
直也の肩が、目に見えて分かりやすく落胆の角度を描く。その様子を見て、ひよりが毛布の中でくくくと肩を揺らした。
「直也くん、それね、クリエイターズ・グラウンドにおける『コーヒーの二重スリット現象』って言うんだよ」
「何だよその量子力学みたいな名前」
「自分で用意した瞬間に、なぜか外部からの供給が重なるの。このスタジオではよくある怪奇現象」
「ただの偶然だろ」
直也は吐き捨てるように言ったが、あえてそれ以上は否定しなかった。
レイは温かいマグカップを両手で包むようにして、自分のデスクへと戻った。陶器の熱が、冷え切っていた指先の輪郭をじわじわと書き換えていく。その微かな痛みを伴う温かさが、妙に心地よかった。
液晶画面には、相変わらず未完成の二十七ページ目が佇んでいる。締切までは、あと二日。手を入れるべき背景も、修正したい線の数も、減るどころか増えているようにさえ思える。
それでも、先ほどまでの張り詰めた焦燥感は、不思議と薄れていた。
それが、いま手元にあるコーヒーのせいなのか、漂う香りのせいなのか。あるいは――この狭い空間に、自分以外の人間の気配が確かに存在しているからなのか。レイ自身にも明確な答えは出せなかった。
ただ確かなのは、彼女がこれまで物語を紡いできた夜のすべてに、常にこの苦い液体が寄り添っていたということだ。
ネームが面白いくらいに決まる快調な夜も。
いくら線を引いてもゴミのような絵しか描けない最悪な夜も。
単行本の重版が決まったという報せを受けた日も、一歩も前に進めずにただ時間をドブに捨てた日も。
デスクの片隅には、いつも頼みもしないのにこの黒い液体が静かに佇んでいた。だから、レイにとってコーヒーとは、味覚としての記憶よりも先に、ただそこにあるべき「背景」として脳裏に焼き付いている。
彼女はマグカップに唇をつけ、僅かに口に含んだ。
相変わらず苦く、少しだけ熱い。どこまでも不変で、どこまでも代わり映えのしない味がした。
「美味しい?」
直也が手持ち無沙汰そうに尋ねてくる。レイは少しだけ視線を彷徨わせ、それから短く答えた。
「……普通」
「普通かよ」
「でも、飲むんだ」
「うん」
「何で?」
レイは再び、手元の黒い水面を見つめた。薄い湯気の向こうで、液晶モニターの青白い光が、不規則な波紋となって微かに揺れている。
「……たぶん」
それは、夜の静寂に溶けてしまいそうなほど小さな呟きだった。
「いつも、そこにあったから」
床の塊から、ふっと短い笑い声が漏れた。
「クリエイターと珈琲ねえ。銀婚式を迎えた老夫婦みたいな熟年感。ロマンの欠片もない」
「そんなんじゃない」
「否定が弱いな、レイちゃん」
部屋は再び、日常の境界線へと収束していく。
確実な重さを持ったマウスのクリック音。タブレットの表面を擦るスタイラスの摩擦音。遠くの夜を切り裂いていく車の残響。そして、時折混ざる、温かい液体を 啜るかすかな音。
ドラマチックな事件など、何一つとして起きない夜だ。依然として締切という現実は目の前に立ちはだかっているし、原稿が魔法のように終わるわけでもない。
それでも、世界の歯車は、確実に前へと回り続けていた。
レイは新しいレイヤーを作り、一本の線を引く。その傍らで、マグカップからはまだ細い湯気が静かに立ち上っていた。
Ctrl+S。
保存を告げる電子音が静かに響く。
器の中の液体は、まだ半分以上、黒い静寂を湛えたまま残っている。この果てしない夜を泳ぎ切るには、それで十分だった。




