第17話 「修羅場」
午前零時二十八分。
YLSスタジオは、底のない静寂に沈んでいた。開け放たれた窓の向こうから、遠くの幹線道路を走る大型トラックの排気音が、忘れた頃にだけ微かに届く。
部屋を領地のように支配するのは、液晶モニターの青白い残光だ。画面にはレイヤーの重なったPSDファイルが開かれたままで、机の周囲には剥がれかけた付箋が意味をなさずに散らばっている。資料用の専門書が山を築くそのデスクの右上に、小さなカレンダーのガジェットが常駐していた。
そこに表示された数字を見た瞬間、レイは握っていたスタイラスの動きをぴたりと止めた。
あと、三日。
締切までの猶予。正確にカウントダウンするならば、二日と二十三時間三十二分。
その数字自体に、物理的な質量があるわけではない。ただの記号だ。しかし、一度視界に入れてしまえば、それは棘のように意識の裏側に刺さって抜けない。見てしまったから、考えてしまう。考えてしまうから、焦燥が指先を侵食していく。物を作る人間というのは、大抵この悪循環の奴隷だった。
レイは椅子の背もたれに深く身体を預け、肺の底から重い息を吐き出した。
原稿はまだ終わっていない。背景はパース線が剥き出しのままだし、効果線もアタリの段階で止まっている。吹き出しの中のセリフにいたっては、ただの仮文字だ。進捗率を強いて数値化するなら、七十パーセントといったところか。
だが、問題はそこではない。未完成の三十パーセントという労力よりも、カレンダーが突きつける「三日」という数字のほうが、圧倒的な質量で脳内を占拠していた。
それが締切という怪物の正体だ。作業の量ではなく、残された時間そのものが精神を磨り減らしていく。
その時、床に転がっていた毛布の塊が、もぞもぞと不気味に蠢いた。
「締切の足音が聞こえるねえ」
ひよりの声だった。完全に寝落ちしたかと思われていたが、どうやらカインの如く泥の中で意識を保っていたらしい。
「うん」
「ついに来ちゃったか」
「うん」
「あいつら、本当に空気読まないよね。いつも予定通りにきやがる」
「いつもね」
締切前のスタジオではありふれた、中身のない会話だ。しかし、深夜の空気のせいで、妙に重苦しい儀式のように響く。ひよりは毛布の隙間から、寝癖で爆発した頭と眠そうな顔を覗かせた。
「ねえ、レイちゃん。不思議だと思わない?」
「何が?」
「締切の日なんてさ、一ヶ月前から決まってたわけじゃん」
「うん」
「なのにさ、残り三日になった瞬間に、急にリアルな質感を持って襲ってくるの。あれ何なんだろうね」
レイは自嘲気味に唇の端を上げた。まったくもって反論の余地がない。カレンダーは最初からそこにあったし、編集部がスケジュールを前倒しにしたわけでもない。一ヶ月前の締切も、今ここにある締切も、同じ絶対的な未来だ。
変わったのは、時計の針が進んだということだけ。それなのに、残り三日という境界線を越えた途端、世界の解像度が狂ったように高くなる。
「時間ってさ、後ろから追いかけてくるストーカーみたいだよね」
ひよりが天井を見上げたまま、ぼそりと呟く。
「本当は、目の前に立ちはだかってるはずなのに」
「……そうかもね」
再び、低い静寂が部屋に満ちる。マウスのクリック音と、ファイルの保存を知らせるハードディスクの駆動音。エアコンのインバーターが発する、耳鳴りのような高周波。
レイはモニターの中の白いキャンバスを凝視した。締切なんて大嫌いだ。それは人を苛立たせ、不安に陥れ、普段ならスルーするようなミリ単位のノイズを無理やり修正させようとする。
だが、同時に理解もしていた。締切という残酷な終わりがなければ、この物語は永遠に未完成のままだ。完成しない作品は誰の目にも触れない。誰にも読まれないページは、ただの自己満足の死骸に過ぎない。
表現の自由を謳歌しながら、最後は時間に縛られなければ形にできない。クリエイターの営みとは、因果な矛盾の上に成り立っている。
トントン、と遠慮がちなノックの音が響いた。
ドアを開けて入ってきたのは、見慣れたコート姿の直也だった。片手にはコンビニのポリ袋、もう片手にはいつものブラックコーヒーの缶。
「お疲れ。まだ起きてる?」
「お疲れさま。また来たんだ」
ひよりが毛布の中から冷やかすように言う。
「悪かったな。来ちゃいけなかったか?」
「いや、直也くんってさ、締切前の人間の血の匂いを嗅ぎつける能力でもあるのかなって」
「俺はゾンビか何かかよ」
直也は苦笑しながら、部屋の空気を肌で察した。何かが決定的に変わっている。誰も声を荒らげていないし、パニックにもなっていない。しかし、空気の密度が、数時間前とは明らかに違う。
黙々とペンを走らせるレイの背中。乱雑さを増していくデスク。増え続ける空き缶。開かれっぱなしの作画資料。それらすべてが、無言で一つの事実を告げていた。修羅場が始まっている、と。
直也が差し出した缶コーヒーを、レイは無言で受け取った。手のひらに伝わるアルミ缶の冷たさが、昂ぶった脳の熱を少しだけ冷ましてくれる。
「……間に合いそう?」
直也の問いに、レイは数秒の沈黙を挟んだ。
「たぶんね」
「たぶん?」
「うん、たぶん」
ひよりが毛布の中でくすくすと笑う。
「直也くん、クリエイターの『たぶん』を信じちゃダメだよ。それは『まだ何も手をつけてないけど、最悪徹夜すれば理論上は終わる』の裏返しだから」
「手厳しいな」
レイは抗議の声を上げたが、核心を突かれているだけに声に力はなかった。背景は白いままだし、修正したい線は山ほどある。
締切は確実に迫っている。逃げ道はない。だが、まだペンは動く。まだ直せる。まだ、前へ進める。
レイは再びスタイラスを正しく握り直した。画面上のカーソルが、白いキャンバスの上を滑るように動く。新しい一本の線が、慎重に、だが迷いなく引かれていく。
画面の隅で、小さなカレンダーは変わらず冷徹に時を刻んでいる。何も言わない。励ましも絶望も与えない。ただそこに存在する。
もしかしたら締切というのは、人を追い詰めるためのものではなく、作品をこの世界へ産み落とすための、唯一の装置なのかもしれない。
レイはそんなことを考えながら、ショートカットキーを叩いた。
Ctrl+S。
保存完了のダイアログが消え、再び作業に戻る。まだ、何も終わっていない。だからこそ、この長い夜はまだ、終わるわけにはいかなかった。




