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誰が描いた?【マンガ・アニメ制作のリアルを描く業界ドラマ】  作者:
ARC II — 続いている

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第16話 「推敲」

 雨は降っていなかった。

 ただ、深夜特有の湿った夜気が、YLSスタジオの窓ガラスに薄く結露を結んでいるだけだ。時計の針は午前一時四十七分を指している。

 室内を照らすのは、二台の液晶モニターが放つ青白い光だけだった。机の上には、すでに空になった缶コーヒーが二缶。一本はレイのものだが、もう一本は誰がいつ飲み干したものか、もはや誰も覚えていない。

 画面には、クリップスタジオの作業データが開かれたままだ。二十七ページ目。フォルダ上のステータスは「完了」となっている。少なくとも、データとしてはそうなっているはずだった。

 しかし、レイはその画面を十分以上も凝視したまま動かない。右手に握られたデジタルペンの先は、微動だにせずタブレットの上で浮いている。ただ、その瞳だけがコマからコマへと、執拗に往復を繰り返していた。

 静寂が部屋を満たしている。パソコンの冷却ファンが発する低い唸りと、時折、遠くの幹線道路を通り過ぎる車の残響だけが、辛うじて時間の経過を告げていた。

 カチリ、と静かなクリック音が響く。

 レイはレイヤーを選択した。キャラクターの左目。拡大率は三百パーセント。スタイラスの先端が、液晶の表面を僅かに滑る。

 一ミリにも満たない変化。線の角度がほんの僅かに外側へ膨らんだ。ただ、それだけだ。

 慣れた手つきでショートカットキーを叩く。Ctrl+S。保存完了を告げる小さな進捗バーが画面の隅に現れては消えた。レイはキャンバスを元の等倍表示に戻す。数秒、あるいは数十秒。彼女は再びその瞳を見つめ、そしてまた、三百パーセントへと表示を拡大した。

「……まだ、引っかかる?」

 背後からかけられた声に、レイの肩が僅かに跳ねた。

 いつの間にか戻っていた直也が、コンビニのビニール袋を提げたまま立っている。夜食か何かを買い出しに行ってくれていたのだろう。

「うん」

 レイの返事は短かった。

「どこが?」

「……目」

 直也はビニール袋を机に置き、モニターへと顔を近づけた。目を細め、レイが見つめるその部分を凝視する。

「同じに見えるけどな」

「うん」

「違うの?」

「違う」

「どれくらい?」

 レイは少しだけペンを止め、思考を巡らせるように視線を彷徨わせた。

「ちょっとだけ」

 直也は困ったように小さく笑った。システムエンジニアである彼にとって、数値化できないその「ちょっと」は、おそらく宇宙の真理と同じくらい不条理なものに映るのだろう。彼には違いがわからない。しかし、レイにとっては、その一線が作品のすべてを左右する死活問題だった。

 その時、暗い床の上から、籠もった声が這い出してきた。

「私はね、クリエイターってのはジャガイモだと思うわけよ」

 二人の視線が同時に床へと向かう。ひよりが毛布にくるまったまま、芋虫のように転がっていた。起きているのか、あるいは寝言の延長線なのか、判別がつかない。

「……何それ。どういう意味?」

 直也が呆れ半分で問いかける。

「クリエイターは、ジャガイモ」

「だから、その理論はどこから出てきたんだよ」

「あいつらはさ、地下の暗いところでじっと何かを作って人生を過ごすじゃん? で、いざ収穫されて世に出てからも、まだ自分が未完成だと思ってブツブツ言ってるわけ。ほら、根菜特有の暗さっていうかさ」

「それはただの植物の性質だろ。主語を大きくするな」

 ひよりは半分だけ目を気怠げに開き、毛布の中から天井を見上げた。

「要するにさ、二人とも終わったはずの原稿を何度も弄り回してるでしょ。それ、別に絵を良くしたいからじゃないよね」

「……」

「ただ、安心したいだけでしょ」

 ひよりは大きなあくびを噛み殺し、再び毛布の中に潜り込んだ。

 部屋に再び沈黙が戻る。モニターの光が、三人の横顔を等しく照らしていた。

 レイは反論しなかった。ただ、その視線は再び液晶の上の「左目」へと戻っていく。

 安心したいだけ。ひよりの放ったその言葉が、耳の奥に妙な残響を残していた。自分は本当に、この絵を向上させようとしているのだろうか。それとも、ただこのまま世に出すのが怖くて、言い訳を探すために手を動かしているだけなのか。レイ自身にも、その境界線は判然としなかった。

 物を作る過程には、確かにそういう瞬間がある。論理的な言葉では説明がつかないのに、ただ指先だけが強迫観念のように動き続ける時間が。

 直也がビニール袋から冷えた缶コーヒーを取り出し、レイのペンタブレットの脇にそっと置いた。

「ほら、差し入れ」

「ありがと」

「まあ、正直に言うと、俺にはやっぱり違いがわからないよ」

「うん」

「読者だって、誰も気づかないかもしれないし」

「うん」

「それでも、直すんだろ?」

 今度は、レイの唇の端が微かに上がった。本当に、見落としてしまいそうなほど小さな微笑だった。

「うん」

 その返事の時だけは、彼女の脳内に何の迷いも、思考の遅延もなかった。

 スタイラスが再び液晶に触れる。一本の線。ほんの、ほんの僅かな修正。

 誰も気づかないかもしれない。SNSの数字が変わるわけでもない。感想のコメントに書かれることもない。それでも、レイはその線を引かずにはいられなかった。

 Ctrl+S。

 データが更新される。時計の針は午前二時十三分。YLSスタジオの窓に灯る青白い光は、まだ消えそうになかった。



挿絵(By みてみん)

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