第15章 「未完の円環」
午前二時十三分。
YLSスタジオの明かりは完全に落とされ、ただ二枚の液晶モニターが放つ青白い光だけが、室内の輪郭を冷ややかに切り取っていた。
窓の外は、底の知れない完全な暗闇。都市が発する喧騒はすでに限界まで薄まり、時折、遠くの幹線道路を大型トラックが通り過ぎる低い地鳴りと、夏の終わりを告げる乾いた夜風がガラス窓をがたがたと小さく揺らす音だけが響く。それ以外は、ただの静寂だ。
橘麗は、いつもと同じワークチェアの定位置に深く腰掛けていた。
指に馴染んだデジタルペン。目の前に鎮座するペンタブレット。使い込まれたキーボード。そして、デスクの端ですっかり冷え切っている缶コーヒー。どれもがこの数ヶ月、あるいは数年の間、彼女の夜を構成してきた見慣れたガラクタたち。
景色は何一つ変わっていない。
いや、あるいは、ほんの少しだけ何かが変わったのだろうか。
この数週間の出来事が、麗の脳裏を灯籠のように静かに駆け抜けていった。
意を決して、新しい原稿を世界の片隅へ投稿したこと。画面の向こうの無機質な閲覧数に一喜一憂したこと。悪気のない一行のコメントに、喉の奥を突かれたような痛みを覚えたこと。独りよがりの数字の暴力に打ちのめされ、それでも目の前の少女の破綻した論理に救われて、小さく苦笑したこと。
データを保存し、また上書きし、ゴミ箱へ放り込み、新しいフォルダを増やした。
そうして無数の迂回を経た果てに、彼女は今夜もまた、真っ白なキャンバスに向かって線を引いている。
「……」
ペン先が画面を叩く、コツコツという規則的な硬い音だけが、部屋の澱んだ空気を微かに震わせる。
線が増えるたび、ネームのページは少しずつ前へと進んでいく。全体の終わり、つまり「完成」という名の境界線は、確実に近づいているはずだった。
それなのに、どうしてだろうか。麗の胸には、物語が終焉に向かっているという実感が、これっぽっちも湧いてこなかった。
表現の衝動というものは、つくづく不条理にできている。
一本の連載が最終回を迎えても、脳の片隅からはもう、次の新しい物語の芽が吹き出している。一つのページを描き終えても、次の真っ白なページが、冷酷な沈黙を守ったままペン先を待っている。
目の前に見えていたはずの「ゴール」は、その場所にたどり着いた瞬間に、ただの新しいスタートラインへとすり替わってしまうのだ。終わりなど、最初からどこにも存在しない。それはただの、一時的な休息の場所に過ぎない。
麗は左手の指を動かし、使い慣れたショートカットキーを叩いた。
『Ctrl+S』
キーボードが静かに沈み込む、カチリという小さな打鍵音。長年の習慣が染み付いた、無意識の儀式。画面の右隅に、一瞬だけ白い文字が浮かび上がる。
『保存しました』
肺の奥に溜まっていた熱い空気を、小さな溜息とともに吐き出す。爪の先ほどの、本当に些細な安堵。
「今ので、何回目ですか?」
薄暗い床の上、毛布の山の中からくぐもった声が響いた。
ひよりだ。彼女は頭まですっぽりと潜り込んでおり、外見からはただの不整形な布の塊にしか見えない。
「さあね。数えてないわよ」
「おそらく、ちょうど百回目ですね」
「そんなに頻繁に保存してないわよ」
「じゃあ、九十九回です」
「同じようなものでしょ」
毛布の山が、くくくと不規則に揺れた。麗の口元にも、自然と小さな笑みが浮かぶ。
ひどく穏やかで、何の変哲もない深夜だった。ドラマチックな事件など何一つ起こらない。
作品のランキングが急上昇するわけでもなければ、見知らぬ誰かの感想が届くわけでもない。スマートフォンの通知ランプは静かに眠りについたままだ。ただ、冷たい液晶の光の中で、淡々と手元が動いている。
けれど、麗は知っていた。創作者が費やす時間の九十九パーセントは、まさにこうした「他者からは見えない無駄な時間」の積み重ねで構築されているのだということを。
誰にも見られず、誰にも知られず、数字に還元されることもなく、他者からの評価に晒されることもない。ただ、暗闇の中で時間を忘れて、泥臭く一本の線を削り出し続ける。その名前のない時間の堆積からしか、本物の表現という名の産物は生まれない。
「麗さん」
ひよりが毛布からぬっと顔を覗かせ、液晶の光を浴びた瞳でこちらを見つめた。
「何によ」
「それ、いつか終わるんですか?」
麗は手を止め、光り輝く画面を見つめた。
現在進行形の原稿。SSDの奥深くで埃を被っている『フォルダの山』。途中で力尽きた無数の未完のプロジェクト。昨夜の深夜テンションが残した、名もなき『draft_01.psd』。片付けても片付けても増え続ける、中途半端な残骸の数々。
「……終わらないわよ」
それが、彼女の胸の底から導き出した、一番正直な答えだった。
ひよりは丸椅子の上で小さく顎を引いた。
「でしょうね」
「あっさり認めるのね」
「見ていれば分かりますよ。麗さんの手つき、完全にその病気の特徴が出ていますから」
彼女は首を少し傾げ、天井の薄暗い陰影を見つめながら淡々と言い添えた。
「でも、だからこそ、いいんじゃないですか。終わらないからこそ、私たちはこうして、ずっと走り続けられるわけですし」
麗は何も言い返さず、ただ静かにひよりの言葉を胃の底へと沈めた。
終わらない。確かにその通りだった。
一本の作品は完成する。一つのページは埋まる。連載はいずれ結末を迎える。
けれど、「描く」という行為そのものには、永久に終わりが来ないのだ。
一度終わらせては、また最初から始める。新しいフォルダを作り、データを保存し、リテイクを繰り返し、未熟な自分と向き合い続ける。その歪な円環を、彼女たちはこれからも何度も、何度も描き直していくのだろう。
窓の外では、夜の風がスタジオの換気扇をからからと単調に回し続けている。
液晶モニターは相変わらず白い光を放ち、床の上ではひよりが再び毛布の海へと沈んでいく。世界のどこかの暗い部屋では、一ノ瀬直哉がヘッドフォンを首にかけたまま、まだ見ぬ更新を求めてスマートフォンの画面を引っ張っているかもしれない。世界は相変わらず、それぞれの都合で忙しく動き続けている。
麗は再びデジタルペンを深く握り直し、キャンバスの新しい領域へとペン先を滑り込ませた。
締め切りはまだ遠く、夜もまだ明けない。明日も、来週も、来月も、彼女はきっとこの薄暗い部屋で、同じように指先を黒く汚しているのだろう。
明確な理由なんてない。けれど、ただそれだけの事実が、今夜の彼女の心をひどく静かに、そして確かに肯定してくれていた。
『Ctrl+S』
静寂の中に、もう一度だけ硬い打鍵音が響く。
画面の端に、小さく『保存しました』の文字。
麗はそれを愛おしそうに見つめてから、迷うことなく、新しい一本の線を引き下ろした。
夜はまだ、終わらない。物語も、まだ終わらない。
だからこそ、彼女のペン先が、その進路を止めることは決してないのだ。




