第14章 「フォルダの山」
橘麗の作業用SSDの中には、極力開くべきではない、不可解な領域が存在している。より正確に言うならば、そのアイコンにカーソルを合わせるたび、胸の奥に淡い罪悪感がちくりと走るような、そんな忌むべき場所だ。
フォルダ名:『フォルダの山』
あまりにも直接的で、情緒のない名前だった。数年前、連載の修羅場に追われて精神的に限界を迎えていた麗自身が、半ば自暴自棄になって名付けたものだ。
「……」
液晶画面の上で、矢印の形をしたカーソルがぴたりと動きを止める。
ダブルクリック。
開かれたウィンドウの中には、画面を埋め尽くすようにして無数のフォルダのアイコンが並んでいた――百二十七個のアイテム。
その総量が尋常ではないことくらい、麗自身が一番よく分かっていた。ただ、これまでの長い日々の中、見えないふりをして現実を直視するのを避けていただけだ。その一つ一つが、かつて途中で投げ出された不完全なプロジェクトの塊だった。
挫折した長期連載のフォルダ。冒頭だけで力尽きた短編のフォルダ。二度と動くことのないキャラクターデザインだけが眠るフォルダ。編集部にボツを食らった無数のネームのフォルダ。半分だけ描かれた漫画、半分だけ書かれたプロット、半分だけ形になった世界観。
半分、半分、半分。
そこは、無数の「中途半端」なフォルダによって構築された、歪な墓標の山だった。
「おや。人間の情熱が死に絶えた、電脳世界の死体置き場ですか?」
背後から、スリッパの音もなく忍び寄ってきたひよりが、液晶の光を浴びながら平坦な声を投げかけてきた。
「……『フォルダの山』よ」
「なるほどね」
ひよりは麗のワークチェアの背もたれに顎を乗せ、ぶら下がった姿勢のまま、画面いっぱいに広がるフォルダの群れを凝視した。
「ずいぶんと積み上げましたね」
「分かってるわよ」
「百二十七個のフォルダ」
「見れば分かるっての」
「いえ、百二十八個ですね」
「……なんで増えるのよ」
「昨日の深夜、楽しそうに『draft_01.psd』を新しいフォルダに入れて保存していたのを、私は見逃していません」
麗は返す言葉を失い、口を噤んだ。ひよりの指摘通りだった。昨夜、深夜のテンションに身を任せて描き殴ったあの新しい断片が、すでにこのフォルダの山の新しい一角として登録されていたのだ。
「仕事が早いですね」ひよりが淡々と言う。
「……仕事じゃなくて、ただの現実逃避よ」
ひよりが、喉の奥でくくくと低く笑った。
麗はマウスを操作し、積み上がったフォルダを古い順から一つずつ開いていった。
五年前の痕跡。三年前の残骸。一年前の、まだ記憶に新しい失敗。
すべてのフォルダが途中で立ち止まり、すべてのフォルダが時代の潮流に置き去りにされ、すべてのフォルダがエネルギー切れを起こして息絶えている。
それなのに、麗はそのどれ一つとして、削除キーを叩いてゴミ箱へ放り込もうとはしなかった。
なぜだろうか。
完成しなかった。世に出ることもなかった。誰にも評価されなかった。
それでも、これらのフォルダの山には、消去しきれない確かな「重さ」が宿っているような気がしてならなかった。
このフォルダを作ったあの時、麗は確かに信じていたのだ。これは必ず完成する。これはきっと、自分の未来を切り開く偉大な作品になる。そんな根拠のない熱量が、かつては確かに存在していた。その熱の残滓が、データの底に沈殿している。
「麗さん」
「何よ」
「これ、全部」
「ええ」
「描きたかったんですね」
麗はすぐには答えなかった。けれど、ひよりの言う通りだった。
描きたかったから、新しくフォルダを作った。残しておきたかったから、ハードディスクの底に保存した。自分という人間がかつてそこにいた証明だから、今も消さずにフォルダが並んでいる。
それが結末を迎えたか否かなど、表現の衝動の前には些細な問題に過ぎないのかもしれない。
ひよりは丸椅子を引き寄せ、そこに座って膝を抱え込みながら、画面に並ぶフォルダの山を見つめた。
「人間っていうのは、本当に『欲の積み上げ』が天才的に上手い生き物ですね」
麗の唇から、かすかな苦笑が漏れた。反論の余地などどこにもない。
一つが終わっていないのに、次のフォルダを増やす。目の前の仕事に追われているのに、新しいおもちゃに手を伸ばす。
読まないまま平積みされた本。買っただけで満足したゲーム。商売道具のSSDに溜まっていくフォルダの群れ。すべては同じ、人間の不完全さの象徴だ。
「でも、ゼロよりはマシですよ」と、ひよりが冷めかけたエナジードリンクを啜りながら言った。
「なんでよ」
「欲求のメーターが完全にゼロになった人間なんて、ただの抜け殻じゃないですか。ガラクタでも何でも、フォルダが積み上がっている方がまだ生き物らしいです」
麗は声を上げて笑った。ひよりの言葉は、いつも通り深いのか浅いのか判別がつかない。おそらく、言っている本人すら何も考えていないのだろう。
窓の外では、夏の終わりの乾いた風がスタジオの換気扇をからからと静かに回している。
液晶画面の上には、百二十八個の歪なフォルダの山。完成しなかった未来の群れ。
けれど、麗の胸を満たしていたのは、不思議なほど穏やかな充足感だった。これは決して、無駄な時間の死骸などではない。自分がかつて、何かを激しく望んでいたという、生々しい足跡そのものなのだから。
ひよりが細い指先で、画面の最下段に並ぶいくつかのフォルダ名を順に指差した。
「麗さん」
「何によ」
「このへんのフォルダ」
「ええ」
「『新規プロジェクト_完成』」
「そうね」
「『新規プロジェクト_完成2』」
「……ええ」
「『新規プロジェクト_完成_最終』」
「……」
「『新規プロジェクト_完成_最終_本当に最後』」
「うるさい、もう言わないで」
しばらくの、ひどく不毛な沈黙。
やがてひよりが、至って大真面目なトーンで言い添えた。
「麗さんって、本当に終わらせる気がないんですね」
麗は何も答えられなかった。画面の端で自己主張を続ける、破綻したフォルダ名そのものが、何より雄弁な答えだったからだ。




