第13章 「下描き」
午前一時二十四分。
YLSスタジオは、深海のような静寂に包まれていた。あまりにも静かすぎる夜だった。
暗闇の中に白く浮かび上がる液晶モニター。その前に鎮座するペンタブレットと、使い込まれたキーボード。デスクの端で冷え切っている缶コーヒー。どれもがいつもと変わらない、見慣れた深夜の記号たち。
ただ、一つだけ普段の夜と違うところがあるとすれば、橘麗のペン先が、現在進行形の連載原稿をなぞっていないことだった。
「……」
開かれているのは、公式な締め切りのあるページではない。単行本の作業でも、ネームの修正でもない。ただの、他愛のない落書き。
より正確に言うなら、気まぐれな筆の走りが、いつの間にか明確な形を結んでしまった「何か」だった。
見覚えのないキャラクター。着たことのない制服。どこのものとも知れない、見知らぬ街の背景。すべてが未知の物語の断片。
気がつけば、一時間近くもその画面に没頭していた。
「何ですか、それ」
床の上から、くぐもった声が響いた。
ひよりが毛布の隙間からぬっと顔を覗かせ、眠そうな目でこちらを凝視している。
「落書きよ」
「なるほどね」
彼女はしばらく画面を見つめていた。三秒。五秒。十秒。
「新企画ですか」
「……さあね。そんな大層なものじゃないわよ」
「今抱えてる連載、終わりましたっけ?」
「終わってないわよ」
「なるほどね」
短い沈黙。
「クリエイターの不治の病、ふたたびですね」
「黙りなさい」
麗は自嘲気味に口元を歪めた。
胸の奥にある、かすかな罪悪感を否定することはできなかった。本稿の作業は山積みで、修正すべき箇所も、これから描かねばならないページも無数に残っている。それなのに、脳の片隅から新しいアイデアが突発的に湧き上がり、右手が勝手にそれを欲してしまうのだ。
創作者という生き物が定期的に罹患する、逃避という名の持病。
麗は画面の向こうの、見知らぬ少女の髪に細かなディテールを描き加えていった。その作業は、驚くほど純粋に楽しかった。
世間に公開する予定などない。誰かに見せるつもりも、評価を求めるつもりもない。ただ、頭の中にあるイメージを一本の線に変えていく。ただそれだけの行為なのに、摩耗しかけていた指先が、不思議なほど生き生きと躍動していくのを感じていた。
「麗さん」
「何よ」
「それ、完成するんですか?」
麗のペンを持つ手が、途中でふっと止まった。
完成するか、しないか。そんなことは、自分にも分からなかった。
共有サーバーのフォルダを開けば、そこには途中で息絶えた無数のプロジェクトの死屍累々が眠っている。一話だけで止まった漫画。設定だけで力尽きたプロット。結末を迎えることのなかった小説。
「……分からないわよ」それが、彼女の絞り出した答えだった。
ひよりは毛布の中で小さく頷いた。「模範解答です」
「なんでよ」
「だって、完成する前に次の新しい子が生まれるのが普通ですから」
麗の唇から、小さな苦笑が漏れた。
本当にその通りだった。一つが終わる前に、次のものが増えていく。引き出しが片付く前に、新しいガラクタが詰め込まれていく。クリエイターのハードディスクとは、いつだってそういう歪な生態系なのだ。
麗は画面の上に、新しいレイヤーを作成した。
名前:未定。年齢:未定。世界観設定:未定。
すべてが空白。何一つ決まっていない。それなのに、その不確かな輪郭だけは、確かにそこに存在していた。物語はまだ始まってすらいない。けれど、微かな予感の影だけが、液晶の向こうで息を潜めている。
「人間っていうのは、本当に奇妙な生き物ですね」ひよりが丸椅子を引き寄せ、そこに座って膝を抱え込んだ。
「何がよ」
「終わっていない重荷をいくつも背負ったまま、平気な顔で新しい荷物を増やしていくんですから」
麗は何も言い返せなかった。反論する言葉が見つからなかった。
窓の外では、深夜の乾いた風がスタジオの換気扇をからからと静かに回している。
モニターの上には、生まれたばかりの新しい下描き。フォルダの奥には、置き去りにされた古い残骸。圧倒的に、完成しなかったものの方が多い世界。それでも、彼女はペンを走らせることをやめない。
いつか何かの役に立つかもしれないから。いつか、この物語が結末を迎えるかもしれないから。そんな、何の根拠もない淡い期待だけが、今夜の彼女を支えるには十分だった。
麗はキーボードを叩き、上書き保存のショートカットを実行した。
画面の端に、新しいファイル名が小さく表示される。
『draft_01.psd』
将来の自分が、確実に管理に苦しむことになるであろ、ありふれた名前。
けれど、この深海のような夜において、その不確かな名前は、妙に優しく彼女の指先を肯定してくれているような気がした。




