第10+2章 「未読のまま」
午後十時十一分。
YLSスタジオの明かりは落とされ、ただ液晶モニターの白い光だけが室内を冷ややかに切り取っていた。
雨は上がっていたが、肌にまとわりつくような湿った空気が部屋の隅々に重く沈殿している。デスクの端には、飲み干された缶コーヒーの空き缶。二缶。三缶。それ以上は数えるのをやめた。
麗は手を動かし続けていた。コツコツと、ペン先が画面を叩く硬い音が静寂を刻む。線を引く。保存する。少しだけ気に入らなくて消去する。また描き直す。その単調な反復。
作業自体は滞りなく進んでいた。客観的に見れば、きわめて順調な仕事ぶりと言っていい。
問題は、画面の向こうではなく、手元にあった。
「……」
麗は、ワークチェアの肘掛けに置いたスマートフォンへ視線を走らせた。
通知のランプは沈黙したままだ。一度画面を点灯させ、何も届いていないことを確認して、再び暗転させる。だが、そのわずか三分後には、また指が勝手に画面を叩いている。やはり、空白。暗転させる。
その滑稽な往復は、数日前のあの夜とよく似ていた。違いがあるとするなら、待っている対象の中身だけだ。あの時は見知らぬ誰かのコメントを待っていた。そして今夜は、ある特定の人物からの返信を待っている。
昼過ぎに送ったメッセージは、未だに既読すらついていない。
仕事の緊急案件というわけではなかった。他愛のない、ただの業務上の確認事項に過ぎない。すぐに返ってこなくても困らないし、今ここで焦る必要なんてどこにもないはずだった。頭では分かっている。
それなのに、一度気になり始めると、意識の数パーセントがどうしてもそちらへ持っていかれてしまう。
人間関係というものは、どうしてこうも燃費が悪いのだろう。
「まだですか?」
薄暗い床の上、毛布の山の中からくぐもった声が響いた。
ひよりだ。彼女は頭まですっぽりと潜り込んでおり、外見からはただの布の塊にしか見えない。
「まだよ」
「なるほどね」
毛布の山が小さく上下した。
「ってことは、消息を絶ちましたね」
「そんなわけないでしょ」
「じゃあ、冬眠です」
「今は真夏よ」
「人間っていうのは、いつでも好きな時に季節を無視して眠れる自由な生き物なんですよ」
麗には、その自由の定義がさっぱり理解できなかった。けれど、彼女の突飛な言葉に、強張っていた頬の筋肉が微かに緩むのを感じた。
再びデジタルペンを握り直す。画面に線を走らせる。データを上書き保存する。少しだけ、前へと進む。
それからの十分間は、スマートフォンの存在を完全に忘れることができた。しかし、作業が一区切りつき、ふと視界の端にプラスチックの黒い筐体が入り込んだ瞬間、眠っていた焦燥が再び目を覚ます。
「……」
手を伸ばし、画面を見る。相変わらずの静寂。
毛布の山から、ひよりがぬっと顔を覗かせた。
「計算してみたんですけど、麗さん、今の動きだけならトップ配信者並みですよ」
「どういう意味よ」
「スマホの確認頻度です。重度の依存症ですね」
麗は無言でスマートフォンの液晶を下に向けて置き直した。視界に入らなければ、意識を逸らせる。理論上は、そうなるはずだった。
だが、そのわずか三十秒後。彼女の右手は、吸い寄せられるようにスマートフォンを元の向きへとひっくり返していた。完全な敗北だった。
「意志の力がミジンコ以下ですね」
「うるさい、黙って」
ひよりが喉の奥でくくくと笑い、新しいエナジードリンクの缶を開けた。パキッと小気味よい音が部屋に響く。
「でも、不思議ですよね」
「何がよ」
「返信を待つ、という行為そのものです」
ひよりはストローを咥えたまま、少しだけ視線を上に向けて思案した。
「待っている時間はあんなに長いのに、返ってくる言葉は一瞬で消費される。ひどく不均衡です」
麗のペンを持つ手が、途中で止まった。
確かに、その通りかもしれない。
何時間も、あるいは丸一日も待ち焦がれ、何度も画面を確かめては一喜一憂する。それほど大きなエネルギーを費やした結果、届く言葉はほんの数文字だったりする。
『了解です』
『分かりました』
『ありがとうございます』
味気ない、記号のような短文。それでも、人はそれを待たずにはいられない。
それは、自分が毎日行っている創作の営みと、酷いほどによく似ていた。
何日も、何週間もかけて部屋に籠もり、血を吐くような思いでリテイクを繰り返し、一本の線を削り出す。そうして膨大な時間を費やして公開された作品は、読者の手によってものの数秒、数分で消費されていく。
創る時間は無限のように長いのに、読まれる時間は瞬きの一瞬。
だからこそ、その一瞬の交錯が、狂おしいほどに切実な意味を持つのかもしれない。
スマートフォンの短いバイブレーションが、麗の思考を強引に引き戻した。
麗の身体が、条件反射のように弾ける。
画面に灯った通知。待っていた人物からの返信。
焦る気持ちを抑えながらロックを解除し、メッセージを開く。そこには、ただ一言だけ記されていた。
『了解』
文字通り、二文字。それだけだった。
「来ましたか?」
ひよりが丸椅子を引き寄せて、麗の横顔を覗き込んできた。
「ええ、来たわ」
「なんて?」
「了解、だって」
ひよりは至って真面目な顔のまま、手元のエナジードリンクを見つめて呟いた。
「待ち時間、およそ六時間。摂取したテキスト、わずか二文字。……コストパフォーマンスが最悪ですね」
麗の口から、堪えきれない笑いが吹きこぼれた。
本当に、ひよりの言う通りだった。六時間をかけて待ち続け、手に入れたのは、画面上のインクの数ミリの染みに過ぎない。
けれど、その二文字があるだけで、肺の奥に溜まっていた重苦しい熱が、綺麗に引いていくのが分かった。人間という生き物は、本当に、救いようのないほどに不合理で、愛おしい。
窓の外では、夜の風がスタジオの換気扇をからからと小さく回している。
返信は終わり、画面の通知は再び静かな眠りについた。
麗はもう一度、右手のペンに意識を集中させた。
おそらく今夜、このスタジオの中で最も大きな前進を遂げたのは、液晶画面の上に引かれたデジタルの一本の線などではなく、彼女自身の、小さな心の輪郭だった。




