第1話 二度目の人生は、好きに生きる
志堂恒一郎は、仕事ができる男だった。
少なくとも、自分ではそう思っている。
実際、面倒な案件はだいたい恒一郎のところへ回ってきた。
顧客が怒っている。
数字が合わない。
納期に間に合わない。
上司が余計なことを言った。
後輩がやらかした。
そういう話になると、決まって最後はこうなる。
「志堂、悪い。これ何とかならない?」
そして恒一郎は、だいたい何とかした。
資料を一目見れば、どこで話がこじれているのか分かった。
誰に先に頭を下げるべきか。
どの数字を直せば収まるのか。
誰が責任を取りたくなくて黙っているのか。
それも、だいたい見当がついた。
その結果――。
仕事は増えた。
給料は大して増えなかった。
出世もしなかった。
三十九歳、独身。
趣味らしい趣味も、いつの間にかなくなっていた。
会社からの帰り道。
コンビニ袋を片手に信号待ちをしながら、恒一郎はふと思った。
「……俺、ずっと人の尻拭いばっかりしてるな」
我ながら、嫌になる。
頼まれたから。
断れなかったから。
期待されたから。
嫌われたくなかったから。
そうやって人の都合に合わせているうちに、自分が何をしたいのかさえ分からなくなった。
信号が青になる。
恒一郎は歩き出した。
その直後だった。
甲高いブレーキ音。
「危ない!」
誰かの叫び声。
視界を埋め尽くす白い光。
衝撃。
そして――。
志堂恒一郎の最初の人生は、そこで終わった。
◇
「起きろ」
声がした。
「……誰だ?」
「まず目を開けてから聞け」
もっともだった。
恒一郎が目を開けると、そこには奇妙な光景が広がっていた。
空のようでいて、空ではない。
足元には浅い水が張られているのに、身体は沈まない。
薄青い光の向こうに、ひとりの人物が立っている。
白い着物。
長い黒髪。
男にも女にも見える。
若くも、年老いても見えた。
「……ここは?」
「死んだ者が長居する場所ではない」
「つまり、俺は死んだと」
「そういうことだ」
「やっぱりか」
最後の記憶は残っている。
車。
光。
衝撃。
だからなのか、意外なほど驚かなかった。
「ずいぶん落ち着いているな」
「まあ……明日、会社に行かなくていいと思うと少しほっとしてます」
目の前の存在が声を上げて笑った。
「つくづく損な生き方をした男だ」
「初対面で傷をえぐりますね」
「違うか?」
「……違わないですけど」
恒一郎は苦笑した。
「では聞こう」
白衣の存在が恒一郎を見る。
「もう一度生きられるなら、次はどうする?」
「もう一度?」
「そうだ」
恒一郎は少し考えた。
立派な人間になりたいとは思わない。
世界を救いたいわけでもない。
善人として称えられたいわけでもない。
ただ、一つだけ。
「……自分で選びたいですね」
「何を?」
「全部です」
誰と付き合うか。
何をするか。
誰を助けるか。
何を断るか。
欲しいものを手に入れるか、諦めるか。
「前の人生は、ずっと人の都合で動いてた気がするんですよ」
「ほう」
「だから次は、もう少し自分勝手に生きます」
「善人ではいない、と?」
「助けたいと思った相手なら助けますよ。ただ――」
恒一郎は少し笑った。
「どうでもいい奴のために、自分を削るのはもうやめます」
白衣の存在はしばらく黙っていた。
やがて、満足そうに笑う。
「それでいい」
「いいんですか?」
「一度目で十分、他人に従っただろう」
その言葉と同時に、足元の水面へ波紋が広がった。
「ならば二度目は――」
存在が恒一郎へ手を伸ばす。
「世界の方を、お前に従わせてみるがいい」
その瞬間。
胸の奥が、熱くなった。
「……今、何かしました?」
「餞別だ」
「何を?」
「それは自分で確かめろ」
「ずいぶん雑ですね」
「二度目の人生まで説明書を読んで始めたいのか?」
「……それもつまらないか」
「だろう?」
恒一郎は肩をすくめた。
「ちなみに、次はどんな世界なんです?」
「お前がいた国に少し似ている」
「少し?」
「刀を差す者が歩き、城があり、宿場があり、遊里がある」
「江戸時代みたいな?」
「似ているが、同じではない。瑞ノ国――そう呼ばれている」
瑞ノ国。
聞いたことのない名前だった。
「ただし、お前のいた世界にはなかったものもある」
「というと?」
「妖異、呪、霊、神託。まあ、その類だ」
「……思ったより物騒ですね」
「退屈はせん」
「それなら悪くない」
一度目の人生は、長かった割に何も残らなかった。
二度目があるなら。
今度こそ、自分で決める。
「志堂恒一郎」
「はい」
「次は好きに生きろ」
「言われなくても」
「欲しいものは?」
「手に入れます」
「気に入らぬ者が邪魔をしたら?」
「どいてもらいます」
「よろしい」
存在が笑った。
「なら行け」
世界が白く染まっていく。
最後に、声だけが聞こえた。
「今度は、お前が人生を選べ」
◇
風が頬を撫でた。
草の匂いがする。
遠くで鳥が鳴いている。
「……ん」
恒一郎はゆっくり目を開けた。
青い空。
丈の高い草。
土の道。
しばらく寝転んだまま空を眺めてから、身体を起こす。
「本当に来たのか」
自分の手を見る。
若い。
肌に張りがある。
立ち上がって身体を動かしてみると、驚くほど軽かった。
「三十九歳から二十歳そこそこか。これは得したな」
近くを流れる小川を覗き込む。
そこに映っていたのは、確かに自分の顔だった。
ただし若い。
前世より少し精悍になっている気もする。
「サービスいいじゃないか」
服装も変わっていた。
紺の着物に羽織。
腰には刀。
足元は草履。
周囲を見渡す。
街道を菅笠の旅人が歩いている。
荷を積んだ馬。
道端の地蔵。
風の向こうから、かすかに寺の鐘が聞こえた。
さらに遠くには城が見える。
その麓には、瓦屋根が幾重にも連なっていた。
「……確かに江戸っぽいな」
ただし、本物の江戸ではない。
見慣れない景色なのに、妙に細部まで鮮明に見える。
旅人の腰の刀。
馬の脚。
道端に咲く花。
一瞬だけ、それぞれが不自然なほどくっきりと見えた。
「……ん?」
今、何か変だった。
そう思った、そのとき。
「きゃあああっ!」
女の悲鳴が響いた。
続いて、男たちの怒声。
「囲め!」
「逃がすな!」
「荷は全部いただくぞ!」
恒一郎は黙った。
「……転生して早々これか」
一度目の人生で、面倒ごとはもう十分だった。
関わる義理もない。
そう思った。
なのに。
足はすでに、声のする方へ向いていた。
「まあ」
恒一郎は肩をすくめる。
「見てから決めるか」
草をかき分け、街道が見下ろせる場所まで出る。
そこで足を止めた。
街道脇に、一台の駕籠が倒れている。
荷物が散乱し、数人の男たちが刀を抜いていた。
旅人らしき者たちは地面に伏している。
そして、その中央。
赤い着物をまとった女がいた。
風にあおられた長い黒髪。
乱れた襟元。
顔の半分を布で隠している。
それでも分かる。
ひどく目を引く女だった。
野盗の一人が、その腕へ手を伸ばす。
その瞬間――。
恒一郎の視界が、変わった。
「……なんだ?」
男の足。
肩。
握っている刀。
立ち位置。
呼吸。
癖。
知るはずのない情報が、次々と頭へ流れ込んでくる。
右脚を痛めている。
刀の腕は大したことがない。
後ろに三人。
林の中に、さらに二人。
そして――。
こいつらの狙いは、荷ではない。
「あの女か」
恒一郎は目を細める。
これが、あの存在の言っていた餞別なのか。
まだ分からない。
ただ、一つだけ分かった。
目の前の連中は、思っていたよりずっと弱い。
「……なるほど」
恒一郎は小さく笑った。
二度目の人生。
どうやら最初から、退屈はしなくて済みそうだった。
ゆっくりと街道へ歩き出す。
赤い着物の女が、こちらを見た。
その目が、わずかに見開かれる。
後に花街一の美姫と呼ばれる女――朱莉と。
志堂恒一郎が出会った瞬間だった。




