沈黙の神殿 前編
執筆してたらめっちゃ長くなってしまったので前半後半に分けます!まずは前半!後半は7時頃に上がると思います!
背後へ残された一つだけの足跡に気付くことなく歩き続けるサクの周囲では、白銀色の草原が相変わらず穏やかな風を受けながら波紋のように揺れ続けており、その光景だけを切り取れば、ここが地下深くに存在する未知の領域であることなど到底信じられないほど静かで美しい景色が広がっているというのに、不思議と鳥の囀りも虫の羽音も聞こえず、生き物の気配だけが視界の届かない場所から絶えず感じられるという奇妙な感覚だけは、歩みを進めるほど少しずつ濃くなっていった。
神殿は依然として遠い。
先ほどより近付いたはずなのに、実際に目へ映る大きさはほとんど変わらず、柱の数も屋根の輪郭もぼんやりと霞んだままで、その距離感だけが現実から切り離されているような違和感を覚えながらも、サクは「こういうマップなんだろう」と結論付け、特に深く考えることなく白銀草を掻き分けて歩き続ける。
すると、風向きが変わった。
今まで背中を押していた柔らかな風がふっと止み、今度は正面から静かに吹き始めると、その風は草原だけではなくサクの髪や服を揺らしながら、どこか懐かしい香りを運んできた。
焦げた木の匂い。
乾いた灰。
そして、火の消えた暖炉のような微かな温もり。
サクは思わず立ち止まる。
「……灰炎都市?」
そんなはずはない。
あの街はもう遥か後方にある。
それでも、この香りだけは間違いなくあの街で何度も感じたものと同じだった。
辺りを見回しても、白銀色の草原しかない。
木もない。
焚き火の跡もない。
香りだけが風へ乗って流れている。
数秒後、その匂いは嘘のように消え去った。
「演出が細かいな……」
そう呟き、再び歩き始める。
だが、その香りを運んできた風は、神殿の最上部で静かに揺れる白い布を僅かに翻していた。
やがて草丈が少しずつ低くなり始める。
白銀色だった穂先は淡い青へ変わり、地面を覆っていた柔らかな苔は磨き上げられた石畳へ姿を変えていくと同時に、一直線だった獣道もいつしか人の手で整えられた参道のような道筋へ変わっていたため、サクはようやく神殿へ近付いてきたことを実感しながら、その石畳へ刻まれた細かな模様へ目を向ける。
丸い紋章。
幾重にも重なる同心円。
その外側を巡る七本の線。
地下遺跡でも、灰炎都市でも、何度か目にしたことがある意匠だった。
しかし、ここでは一つだけ違う。
中心が空白なのだ。
何かが嵌め込まれていたような窪みだけが残り、肝心の部分だけが綺麗に失われている。
サクはしゃがみ込み、指先でその窪みをなぞる。
滑らかだった。
壊れた跡ではない。
最初からそこだけ取り外せるよう造られていたかのような、不自然なまでに整った円形。
ふと、インベントリの中にある《巡歴碑片》が頭をよぎる。
「……まさか」
試しに取り出してみる。
当然、サイズは合わない。
窪みの方が一回り大きい。
サクは苦笑して碑片を戻そうとした、その瞬間だった。
碑片の表面を、淡い銀色の文字列が一瞬だけ流れる。
今度は見間違いではない。
確かに何かが表示された。
だが、読む間もなく霧のように消えてしまう。
その代わり、石畳の窪みが一度だけ脈打つように光り、すぐ元へ戻る。
「反応した……?」
何かのイベント条件だろうか。
そう思いながらも、まだ何かが足りないのだろうと結論付けたサクは、それ以上試そうとはせず、再び碑片をインベントリへしまい込む。
その判断は、偶然だった。
もしあのまま碑片を窪みへ置いていたなら、この神殿で最も古い封印が解かれていたことを、本人は知る由もない。
石段を上る。
一段。
また一段。
数十段ほど上ったところで、不意に足が止まった。
神殿の入口、その左右へ二体の石像が立っている。
鎧を纏った騎士像。
だが顔だけが削り取られている。
いや、削られたのではない。
最初から存在していなかった。
兜の中は空洞で、その奥には夜空を閉じ込めたような深い闇だけが静かに揺れている。
どこかで見た。
そう思った瞬間、地下遺跡で出会った白銀の騎士が脳裏を過る。
姿形は違う。
しかし、その「顔のない」という特徴だけは完全に一致していた。
サクは石像を見上げながら、小さく笑う。
「同じシリーズの敵だったりして」
そう言って神殿の奥へ視線を向ける。
開かれた大扉の向こうには薄暗い回廊が続いており、そのさらに奥には、淡く青白い光だけが静かに揺れていた。
まるで何かが、ずっと昔からそこに座って待っているかのように。
サクは一度だけ深呼吸をすると、迷うことなくその神殿へ足を踏み入れた。
神殿へ一歩足を踏み入れた途端、それまで草原を渡っていた風の音は嘘のように途絶え、外では絶えず耳へ届いていた白銀草の擦れ合う柔らかな音色さえ厚い石壁によって完全に遮られてしまったため、サクは思わず立ち止まり、あまりにも急激に訪れた静寂へ耳を澄ませるが、自分の呼吸と衣擦れ以外には何一つ聞こえず、それは「音がしない」というよりも、この空間だけが世界から切り離されてしまったような、奇妙な孤立感を伴う静けさだった。
床は磨き抜かれた白い石。
長い年月を経ているはずなのに埃一つ積もっておらず、壁面へ等間隔に並ぶ巨大な柱にも風化した様子は見られないことから、人の手による管理が長い間続けられていたと言われた方がまだ納得できるほどであり、地下遺跡で見てきた崩れかけた通路や苔むした石壁とはあまりにも対照的な光景が広がっていた。
天井は高い。
おそらく三十メートル以上。
柱の先端は暗闇へ溶け込み、その全貌を視認することはできない。
それでも、不思議と圧迫感はなかった。
むしろ広すぎる空間だからこそ、自分という存在がひどく小さく感じられ、歩くたび靴音だけが幾重にも反響しては遠くへ消えていく。
サクは壁際へ近寄る。
柱と柱の間には、一定間隔で巨大な壁画が刻まれていた。
一枚目。
人々が都市を築いている。
二枚目。
巨大な樹を囲むように多くの人影が集まっている。
三枚目。
空を見上げる七人。
四枚目。
――そこで、壁画は途切れていた。
「途中で壊れた……?」
違う。
削れた跡ではない。
最初から何も刻まれていない。
滑らかな石肌だけが続いている。
サクは首を傾げながら次の壁画へ向かう。
そこにも何もない。
さらにその次も。
その先も。
十枚以上並ぶ壁面のうち、絵が残っているのは最初の三枚だけで、残りはまるで誰かが「歴史」だけを丁寧に持ち去ってしまったかのように、空白だけが静かに続いていた。
「……なんか変だな」
独り言を漏らしながら、その空白へそっと手を触れる。
冷たい。
それだけ。
何も起きない。
しかし、手を離した直後、ごく一瞬だけ石壁の奥から誰かの笑い声にも似た微かな残響が聞こえた気がして、サクは反射的に振り返る。
誰もいない。
長い回廊が真っ直ぐ続いているだけ。
「……気のせいか」
そのまま歩き始める。
回廊の奥へ進むにつれて、空気が少しずつ変わっていく。
冷たいわけではない。
暖かいわけでもない。
何かを思い出しそうになる空気だった。
幼い頃の記憶。
夢の中で見た景色。
一度だけ訪れた場所。
そうした曖昧な記憶が胸の奥で揺れるたび、その正体を掴む前に霧散してしまう。
やがて回廊は円形の広間へ繋がっていた。
中央には祭壇。
その周囲を七本の白い柱が囲み、柱の上部は互いに光の帯で結ばれている。
だが祭壇の上には何もない。
空だった。
何かが置かれていたような台座だけが残され、その表面には、長い年月を経ても消えない擦り傷が幾重にも刻まれている。
サクは祭壇へ近付き、その傷跡を眺める。
剣で斬った跡ではない。
爪でもない。
もっと規則的で、まるで重い何かを何度も持ち上げ、何度も戻したような痕跡だった。
その時、不意に視界の隅で何かが揺れた。
白いローブ。
柱の陰を横切る細い影。
ほんの一瞬。
瞬きをするほどの時間。
サクは勢いよく顔を向ける。
しかし、そこには誰もいなかった。
柱だけが静かに並び、青白い光が床へ長い影を落としている。
本人は見間違いだと思っている。
だが、この神殿へ入ってから初めて、サク以外の誰かが確かに歩いた音だけが、静かな広間のどこかで一度だけ反響していた。
反響した足音は一度きりだった。
それ以降、神殿は再び何事もなかったかのような静寂へ包まれ、柱の間を流れる微かな空気の揺らぎさえ止まってしまったような錯覚を覚えるほど穏やかな時間だけが流れていくと、先ほど確かに聞こえたはずの音も、今となっては自分の靴音が反射しただけだったのではないかと思えてきたため、サクは肩の力を抜きながら祭壇の周囲をゆっくりと歩き始める。
円形の広間は外から見た印象以上に広く、七本の柱は一定の間隔を保ったまま祭壇を囲んでいるだけでなく、その外側にも同じような柱列が幾重にも続いており、一見すると無秩序に建てられているようでありながら、少し離れて見渡すと全てが一つの巨大な紋様を描くよう配置されていることへ気付く。
それは魔法陣とも違う。
都市の設計図にも似ている。
あるいは、夜空へ浮かぶ星座を地上へ写し取ったものなのかもしれない。
サクは祭壇から少し離れた場所へ腰を下ろし、その全体像を眺めようと視線を巡らせる。
高い場所から見れば分かるのだろう。
そんなことを考えていると、視界の端へ一本の細い階段が映り込んだ。
壁際へ沿うように造られた石階段。
幅は人一人が通れる程度しかなく、今まで柱へ隠れて見えなかったらしい。
「上にも行けるのか」
探索好きの性格が勝つ。
祭壇よりも先に、まず高い場所から見てみたい。
そう思ったサクは迷わず階段へ足を向ける。
石段は思っていたより長かった。
一段一段は低く歩きやすいのだが、踊り場らしい踊り場が存在せず、同じ景色だけが延々と続くため、自分がどれだけ登ったのか分からなくなってくる。
それでも壁面には所々小さな窓が設けられており、その向こうには先ほど歩いてきた白銀の草原が広がっている。
見下ろす。
神殿は思っていた以上に高い場所へ建っていた。
草原は果てしなく続き、ところどころへ白い石碑のようなものが点在している。
来た時には見えなかった。
距離があるからではない。
最初から存在していなかったように思えるほど自然に景色へ溶け込んでいる。
その石碑は一つや二つではない。
数十。
いや、百を超えている。
規則性もなく立ち並びながら、どれも神殿を中心として円を描くよう配置されていることだけは共通していた。
「あとで見に行くか」
そう呟き、さらに登る。
やがて階段は小さな回廊へ繋がった。
外周を一周できる造りらしく、手すり代わりの低い石壁からは神殿内部を見下ろすことができる。
祭壇。
七本の柱。
その配置を真上から見た瞬間、サクは思わず息を止めた。
「……あ」
紋様だ。
柱はただ円形へ並んでいたわけではない。
七本を線で結ぶと、一枚の巨大な樹が浮かび上がる。
根。
幹。
枝。
その全てが柱だけで表現されていた。
地下遺跡の壁画。
試練で見た原初樹。
灰炎都市の中央広場。
それぞれで見た意匠が、ここでも同じ形となって現れている。
偶然ではない。
だが、その意味までは分からない。
サクは「凝ってるなぁ」と感心しながら石壁へ肘を付き、何となく神殿全体を見渡す。
その時だった。
広間の中央。
誰もいないはずの祭壇へ、一枚の白い羽根がふわりと舞い落ちる。
天井は閉じている。
風もない。
それなのに羽根だけがゆっくりと回転しながら祭壇の上へ降り立ち、静かに光となって消えた。
サクは眉をひそめる。
「今の……演出?」
答える者はいない。
しかし神殿は、その羽根を迎え入れるようにごく微かに震え、遠く離れたどこかで古い鐘が一度だけ鳴ったような音が、石壁を伝って静かに響いてきた。
それは祝福だったのか。
それとも、長い眠りから目覚めた何かが発した最初の鼓動だったのか。
まだ、その答えを知る者はいない。
鐘のような余韻は長くは続かず、石壁へ幾度か反響したあと、最初から存在しなかったかのように静かに消え去ってしまうと、神殿の中は再び耳が痛くなるほどの静寂へ包まれ、そのあまりの静けさにサクは無意識のうちに呼吸まで浅くなっていることへ気付き、小さく息を吐きながら肩の力を抜く。
見上げれば、高い天井へ幾重にも渡された白い梁が幾何学的な模様を描いており、その隙間から差し込む柔らかな光は時間の流れを感じさせないほど一定で、朝とも昼とも夕方とも判別できない不思議な明るさだけが神殿全体を満たしていた。
こういう場所は嫌いじゃない。
むしろ好きだった。
強敵が待っている場所より、誰も知らない場所を歩き回る方がずっと楽しい。
だからサクは祭壇へ戻ることなく、回廊をゆっくりと歩き始める。
足元へ視線を落とす。
白い石畳。
一枚一枚の継ぎ目はほとんど見えないほど精巧に組み合わされ、長い年月を経たはずなのに欠けた箇所は一つもなく、僅かな擦り傷だけが過去に誰かがここを歩いていたという事実を静かに物語っていた。
その傷も不思議だった。
歩けば自然と目に入る場所ではなく、壁際や柱の陰、祭壇の裏側といった、人がわざわざ近付かなければ気付けない場所ばかりへ集中して残されている。
まるで誰かが、人目を避けるように神殿の中を歩き回っていたかのようだった。
サクは柱の陰へしゃがみ込み、床へ刻まれた細かな傷跡へ指先を添える。
浅い。
刃物ではない。
もっと硬い何か。
石同士が擦れたようにも見える。
そのまま傷を辿っていくと、それは一本では終わらず、細かな線がいくつも重なり合いながら壁際へ続いており、最後には一枚の石壁の前で途切れていた。
「……隠し扉とか?」
ゲームなら定番だ。
軽い気持ちで壁を押してみる。
動かない。
叩いてみる。
音も変わらない。
特に仕掛けらしいものは見当たらず、サクは「違ったか」と笑いながら立ち上がる。
しかし、その壁の向こう側では、小さな光が一瞬だけ揺れた。
誰にも気付かれることなく。
まるで「まだ早い」とでも言うように。
そのまま回廊を半周ほど進んだところで、今度は壁面へ小さな窪みが規則正しく並んでいることへ気付く。
一つ。
二つ。
三つ。
全部で七つ。
どれも拳ほどの大きさしかなく、内部は黒く塗り潰されたように暗いため奥までは見えないが、その配置だけは地下遺跡で見た七つの光と同じ並びになっていた。
サクは何となく順番に覗き込んでみる。
一つ目。
暗い。
二つ目。
やはり何もない。
三つ目。
――そこだけ、小さな光が見えた。
「……ん?」
目を近付ける。
淡い金色。
虫の光にも似た小さな輝きが窪みの奥で静かに揺れている。
だが、瞬きをした瞬間にはもう消えていた。
「見間違いかな」
それ以上気にすることなく次へ進む。
もし今の光をもう少しだけ見続けていたなら、それが誰かの「瞳」であったことに気付けたかもしれない。
しかしサクは、その可能性すら知らないまま神殿の奥へ歩いていく。
そして、その背中を見送るように、七つの窪みの最奥では、ごく微かな囁きが交わされていた。
言葉にはならない。
風にも聞こえない。
けれど確かに、複数の意思がそこには存在していた。
――巡る者。
――記録と一致。
――観測継続。
――まだ目覚めさせるな。
囁きは一瞬で消え、神殿は再び静寂を取り戻す。
その静けさの中、サクだけは変わらず楽しそうに周囲を見回しながら、「こういう細かい作り込み、本当に好きなんだよな」と独り言を漏らし、さらに神殿の奥へと歩みを進めていった。




