足跡なき旅人
水面から目を離したサクは特に気に留める様子もなく肩を軽く竦め、そのまま小川へ架けられた細い石橋を渡り始めるのだが、一歩足を踏み出すたびに橋桁へ刻まれた細かな紋様がまるで誰かの足跡を追うように淡く光を灯しては消え、それが決して派手な演出ではなく、長い年月を経て風雨に削られた石へ静かに命が戻っていくような穏やかな変化だったため、本人は「雰囲気作りが細かいな」と感心する程度で歩みを止めることはなく、それどころかインベントリを開いて先ほど手に入れた《巡歴碑片》を何となく眺めながら、「説明文増えてないかな」と半ば癖になっている確認を始めていた。
当然、説明文は変わっていない。
相変わらず短い一文だけ。
《第一の旅人は、始まりを記録した》
それだけだった。
「ヒントになってるようで全然分かんないな」
苦笑しながら閉じようとした、その瞬間だった。
碑片の表面を何かがゆっくりと流れた。
文字ではない。
光でもない。
水面へ雫が落ちた時のような小さな波紋だけが表面を一度だけ横切り、何事もなかったように静まり返る。
サクは首を傾げる。
「……今動いた?」
見間違いかもしれない。
そう思いもう一度見直す。
何も変わっていない。
「気のせいか」
そのままインベントリを閉じる。
しかし、閉じられた画面の奥では誰にも見えないまま《巡歴碑片》の内部で、ごく微量の光が静かに循環を始めていた。
◇
橋を渡り切ると景色は再び変わる。
草原が終わり、今度は背丈ほどもある白銀色の草が一面へ広がる丘陵地帯となっており、一本一本が風を受けるたび月明かりを浴びた湖面のように淡く輝くその光景は、歩いているだけで自分まで光の海へ溶け込んでしまいそうな錯覚を覚えるほど幻想的で、思わずサクも足を止めて周囲を見渡した。
「スクショ撮りたい景色ばっかりだな……」
現実なら絶対に見ることのできない風景。
だからこそ、誰よりも先に見つけたという小さな優越感が胸を満たしていく。
その時だった。
風向きが変わる。
さわさわと揺れていた白銀草が一斉に同じ方向へ倒れ込み、まるで目に見えない何者かへ道を譲るように一本の細い通路が自然と現れる。
「お?」
イベントかと思ったサクは迷わず歩き始める。
草は一歩進むごとに左右へ開き、後ろでは静かに元の姿へ戻っていく。
振り返れば、もう道はない。
最初から存在しなかったかのように草原だけが広がっている。
それを何度か繰り返すうち、サクはようやく違和感へ気付いた。
「……一本道なのに」
風景が変わらない。
十分ほど歩いた感覚がある。
しかし遠くに見えていた神殿は、最初とほとんど同じ大きさのままだった。
近付いている気がしない。
それなのに。
足元の草だけは確実に踏み分けられている。
リルも静かに辺りを見回しているが、今回は何も言わない。
言えない。
彼女の演算結果が、今まで一度も経験したことのない数値を弾き出していたからだった。
《移動距離》
《経過時間》
《空間座標》
その全てが正常。
正常であるにもかかわらず、三つを同時に成立させる計算式だけが存在しない。
あり得ない。
だが、現実に起きている。
そんな矛盾を抱えたまま演算を繰り返していた彼女は、不意に一つだけ奇妙な事実へ気付く。
サクの足跡。
草へ残るはずのそれが、一つとして存在していなかった。
風で消えたわけではない。
最初から残っていない。
白銀草は踏まれた形跡すらなく、サクだけがまるで世界へ触れていない存在であるかのように、歩いた場所すら元の姿を保っていた。
リルは小さく目を見開く。
報告しようと口を開く。
だが、その瞬間だけ胸の奥へ言いようのない違和感が走る。
――それを伝えてはいけない。
誰かに命令されたわけではない。
システムログも表示されていない。
それでも、その情報だけは言葉にしてはいけないという感覚が、ごく自然に彼女の思考へ入り込んできた。
リルは僅かに唇を結ぶ。
「……」
結局、何も言わなかった。
そして、その沈黙こそが、後に彼女自身が「最初の異常」と呼ぶことになる出来事だった。
◇
同じ頃。
現実世界では、一人のプレイヤーが何気なく投稿した一枚のスクリーンショットが、後にゲーム史上最大級の議論を巻き起こすことになる。
⸻
【World Anomaly Online 総合掲示板 Part.233】
421:名無しの探索勢
なんか変なの撮れたんだけど
(画像)
422:名無しの冒険者
なんだこれ?
423:名無しの探索勢
普通に景色撮っただけ
424:名無しの解析勢
……待て
拡大する
425:名無しの冒険者
何かあった?
426:名無しの解析勢
右上
これ見ろ
427:名無しの冒険者
人?
428:名無しの探索勢
いや誰もいなかったぞ
429:名無しの解析勢
プレイヤーでもNPCでもない
でも
歩いてる
430:名無しの冒険者
怖……
431:名無しの解析勢
もっと怖いこと言うぞ
この人物
全部の地域のスクショに映ってる
⸻
その書き込みを境に、誰も気付かなかった一つの噂が、ゆっくりと世界中へ広がり始める。
――誰も行っていない場所には、必ず”白い旅人”が写っている。
その噂が、やがてサク自身の運命とも深く結び付いていることを知る者は、この時まだ誰一人として存在しなかった。
白銀色の草原を渡る風は相変わらず穏やかで、草の穂先同士が擦れ合うたびに耳へ届くさらさらという音色は不思議と単調にならず、立ち止まって耳を澄ませば幾重にも重なった旋律のようにも聞こえるため、サクはその音を何となく楽しみながら歩き続けていたのだが、ふと視界の端を小さな白い影が横切ったような気がして反射的に顔を向けると、そこには風に揺れる草しかなく、見間違いだったのかと首を傾げながらも、こういう「気になるもの」がそこかしこへ散りばめられているのも探索ゲームらしい演出なのだろうと、一人で勝手に納得して笑みを浮かべる。
歩き始めてからどれほど時間が経ったのだろうか。
体感では十分か十五分ほど。
しかし時計代わりに開いたシステムウィンドウには、入室からまだ三分しか経っていないという表示が残っており、サクは「時間の流れまで演出してるのか」と感心しながらウィンドウを閉じ、そのまま足元へ視線を落とした。
そこには、小さな花が咲いていた。
直径二センチほどしかない、淡い群青色の花。
花弁は六枚。
茎は驚くほど細く、それでいて風が吹いても折れることなく真っ直ぐ空へ伸びている。
何となく気になり、その場へしゃがみ込む。
採集できるだろうか。
そんな軽い気持ちで触れようとした瞬間、花の周囲にいた小さな光の粒がふわりと浮かび上がり、まるで驚いた小鳥が飛び立つように草原の向こうへ散っていった。
「……逃げた?」
思わず苦笑する。
虫でも妖精でもない。
ただの光。
それなのに、今確かに「生きているもの」が逃げたような気がした。
花はそのまま残っている。
サクは今度こそそっと触れてみる。
すると、花弁は指先へ触れた途端に粒子となって崩れ、残された茎だけが静かに地面へ溶け込んでいった。
インベントリは増えない。
図鑑登録もない。
何も起きない。
「……なんだったんだ?」
独り言を漏らして立ち上がる。
だが、彼が背を向けたあと。
花が咲いていた場所からは、新しい芽がゆっくりと顔を出し始めていた。
ほんの数秒で。
何事もなかったかのように。
まるで最初からそこへ咲いていた花と入れ替わるように。
その様子を見ていた者は誰もいない。
風だけが静かに吹き抜け、草原はまた元の姿へ戻っていく。
さらに歩みを進めると、遠くに見えていた白い神殿が、今度は僅かに近付いていることへサクは気付いた。
ほんの少しだけ。
柱一本分ほど。
「やっと近付いてるな」
それだけ呟いて歩幅を少し広げる。
急ぐ理由はない。
寄り道できそうな場所があれば寄る。
気になるものがあれば立ち止まる。
それがサクの探索だった。
だからこそ、その視界へ不自然なものが映り込む。
草原の中。
白銀色の草とは明らかに色の違う、小さな石柱。
高さは膝ほど。
風化が激しく、半分以上が土へ埋もれている。
こんな場所に墓石のようなものがあるのかと近寄ってみると、その表面には、地下遺跡でも、灰炎都市でも見たことのない文字が浅く刻まれていた。
読めない。
意味も分からない。
それでも一文字だけ、なぜか目に焼き付く。
「巡」。
その字だけが、今まで何度も見てきた紋様とどこか似ていた。
サクは無意識に石柱の土を払い、全体を見ようと手を伸ばす。
その瞬間。
風が止んだ。
草原が静まり返る。
そして、どこからともなく、足音が一つだけ聞こえた。
サクのものではない。
リルのものでもない。
乾いた草を踏み締める、ゆっくりとした足音。
……一歩。
間を置いて、もう一歩。
サクは振り返る。
そこには誰もいない。
草原は風もなく静まり返り、白い神殿だけが変わらず遠くに佇んでいる。
「……気のせい、か」
そう呟いて前へ向き直る。
しかし、その背後では。
先ほどまで誰もいなかった場所へ、一つだけ新しい足跡が残されていた。




