巡る者の足跡
いそがしい、、、!!間に合いました!
白銀の騎士が開いた石門の向こう側へ一歩足を踏み入れた瞬間、それまで地下遺跡全体へ満ちていた冷えた空気は嘘のように和らぎ、岩肌特有の湿った匂いもいつしか消え失せ、代わりに雨上がりの森を思わせる青々とした草木の香りが鼻先を掠めていくと同時に、足裏へ伝わる感触も硬い石畳ではなく弾力を持った苔へ変わっていたため、サクは思わず足元を見下ろし、数秒前まで確かに地下深くの遺跡にいたはずだという記憶と、目の前へ広がる穏やかな自然とのあまりにも大きな落差へ小さく息を漏らした。
頭上には空があった。
いや、正確には空に見える何かだった。
どこまでも高く続く青白い天蓋には雲一つ浮かんでいないにもかかわらず、柔らかな陽光に似た光が空間全体へ均等に降り注ぎ、その光源がどこに存在するのか目を凝らしても決して見つけることはできず、むしろ視線を向けるたびに僅かずつ位置が変わっているような錯覚だけが残るため、見れば見るほど現実感が薄れていく奇妙な景色だった。
その静かな世界には風が吹いていた。
枝葉を揺らすほど強くはない。
草花が僅かに身を寄せ合う程度の穏やかな風。
けれど、その風が通り過ぎるたび、森のどこかから小さな鈴を鳴らしたような澄んだ音色が重なって聞こえてくる。
「……綺麗だな」
自然と零れた一言だった。
ゲームだから。
その一言で片付けてしまえば簡単なのだろう。
それでも、この景色を設計した誰かがいるのだとすれば、その執念には思わず笑ってしまうほどだった。
サクは近くに咲いていた白い花へしゃがみ込み、図鑑登録でもされるかと軽い気持ちで指先を伸ばす。
花弁は薄い硝子細工のような透明感を帯び、中心では淡い蒼色の光が呼吸をするように明滅している。
触れた。
その瞬間、花は音もなく崩れた。
花弁が散ったのではない。
細かな光の粒となって風へ溶け込み、その粒子達は森の奥へ吸い込まれるように飛び去っていく。
「え」
サクは少しだけ目を丸くする。
数秒待つ。
何も起きない。
「採集失敗かな」
そう呟いて肩を竦めると、特に気にすることもなく立ち上がり、再び歩き始めた。
しかし、サクの視界には表示されなかった小さなログが、この世界では静かに記録されていた。
⸻
《第一管理区画》
観測対象の接触を確認
環境応答開始
生態情報更新
⸻
森は静かだった。
鳥の鳴き声はない。
虫の羽音もない。
生き物がいる気配は確かに感じるのに、その姿だけがどこにも見当たらず、時折木々の隙間で何か白い影が横切ったように見えても、視線を向けた頃には既に消えているため、自分が追い掛けられているのか、それとも見守られているのか、その境界すら曖昧になっていく。
やがて、一本の巨木が見えてきた。
周囲の木々より遥かに太い幹。
地中へ潜る根は地表へ大きく盛り上がり、その一部は人一人が歩けるほどの幅を持ちながら複雑に絡み合っている。
奇妙だったのは、その樹皮だった。
木肌には年輪の代わりに、文字とも紋様ともつかない細い線が幾重にも刻まれている。
古代文字に似ている。
だが違う。
地下遺跡の壁画とも違う。
見覚えがない。
それなのに。
どこか懐かしい。
サクは無意識のうちに幹へ手を触れた。
温かい。
木とは思えないほど、人肌に近い温度だった。
その時、不意に風が止む。
森全体が息を潜めたような静寂の中、巨木の幹へ刻まれた無数の紋様が一斉に淡く輝き始める。
それは言葉ではなかった。
けれど確かに、「誰か」が何かを語り掛けようとしているような気配だけが、静かに空気の奥から滲み出していた。
サクは耳を澄ます。
しかし聞こえない。
あと少しで届きそうなのに、その最後の一歩だけがどうしても埋まらない。
そして、その違和感は一瞬で消える。
風が戻る。
木漏れ日が揺れる。
まるで今の出来事そのものが幻だったかのように、森は再び穏やかな時間を取り戻していた。
サクは苦笑しながら頭を掻く。
「最近、不思議なイベントばっかりだな」
そう呟いて再び歩き出す。
その背中を、森中の木々が静かに見送っていたことに、本人だけは最後まで気付くことはなかった。
そのまま巨木の前を通り過ぎようとしたサクの足が、不意に小さな段差へ引っ掛かる。
つまずくほどではない。
ほんの数センチだけ地面が盛り上がっているだけだった。
「……ん?」
何気なく足元へ視線を落とすと、苔に覆われてほとんど見えなくなっていた石畳の一部だけが不自然なほど綺麗な直線を描いており、その隙間からは細い銀色の線が蜘蛛の糸のように覗いていたため、サクは好奇心のまま膝をついて周囲の苔を軽く払ってみる。
すると、それは一本の線ではなかった。
複数の細い溝が複雑に絡み合い、円を描き、さらに枝分かれしながら森全体へ伸びており、まるで大地の下を流れる血管か神経のようにも見えるその模様は、地下遺跡で見た魔法陣とも、灰炎都市の龍脈とも似ているようで決定的に違っていた。
もっと古い。
もっと単純で。
だからこそ完成されている。
そんな印象だけが胸へ残る。
サクは一本の線を指先でなぞる。
冷たい。
石ではない。
金属でもない。
まるで水面へ触れているような柔らかい感触が返ってきたかと思うと、その銀色の線はゆっくりと光を帯び始め、一本、また一本と周囲へ光が広がっていく。
しかしサクは驚くよりも先に笑ってしまう。
「またギミックか」
探索ゲームなら珍しくない。
隠しスイッチ。
隠し通路。
そういう類のものだろうと勝手に納得し、そのまま立ち上がる。
けれど、その光は止まらなかった。
森全体へ広がった銀色の線は、木々の根元を巡り、遠くの小川を横切り、岩肌を這い上がり、やがて視界の奥に霞んで見えていた巨大な建造物の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。
それは神殿だった。
ただし、人が祈るための場所ではない。
柱はある。
屋根もある。
しかし壁がない。
空へ向かって何本もの白い柱だけが立ち並び、その中心には巨大な円形の祭壇が静かに横たわっている。
遠すぎて細部は見えない。
それでも、その場所だけ空気が違うことは肌で分かった。
サクは思わず目を細める。
「最初からあんなの見えてたか……?」
振り返る。
来た道には森しかない。
もう一度見る。
神殿は確かにそこにある。
まるで今この瞬間、「見えるようになった」としか思えないほど自然に景色へ溶け込んでいた。
その時、リルが僅かに眉を寄せる。
「……不自然です」
彼女は神殿ではなく、サクの足元を見ていた。
「どうした?」
「歩数が一致しません」
「え?」
「この空間へ入ってから、サクは四百二十七歩歩いています」
「うん」
「ですが、移動距離は約六百歩分あります」
サクは苦笑する。
「ゲームだからじゃない?」
「……そうですね」
リルはそれ以上言わなかった。
けれど内心では、あり得ない計測結果に演算を何度もやり直していた。
座標は正常。
重力も正常。
時間経過にも異常はない。
それなのに、「一歩」が時折伸びている。
まるで空間そのものが、サクの歩みに合わせて僅かに広がっているようだった。
その異常を知っているのは、今この世界でリルだけだった。
やがて二人は小川へ辿り着く。
透き通る水面には空が映り込んでいる。
サクが何気なく覗き込むと、自分の姿が映る。
その隣にはリルも映っている。
しかし、そのさらに後ろ。
本来誰もいないはずの場所に、一つだけぼんやりと白い人影が立っていた。
サクが振り返る。
誰もいない。
もう一度水面を見る。
やはりいる。
白い外套を羽織った誰かが、微動だにせずこちらを見つめている。
「……気のせいか」
水面へ小石を投げる。
波紋が広がる。
像は崩れる。
そして静かになった水面には、もうサクとリルしか映っていなかった。
本人はそれで納得して歩き出す。
だが読者だけはまだ知らない。
その白い外套の人物は、後にサクが「最初に出会っていた」と知ることになる、世界最古の巡歴者の残滓であり、この時点ですでにサクを見守り続けていたことを。
森の奥では、先ほどまで風に揺れていただけの巨木が、ごく僅かに枝を震わせる。
歓迎するように。
あるいは、長い年月を経てようやく再会を果たした誰かへ応えるように。




