観測される旅人
灰炎都市の市場で起きた違和感は、黒い紋様が消えた後も静かに都市全体へ広がり続けており、先ほどまで確かに存在していた店先の飾りが別の意匠へ置き換わっていたり、一本道だったはずの路地裏へ見覚えのない細い脇道が増えていたりと、一つひとつは些細でありながら、旅人として景色を注意深く見続けてきたサクだからこそ気付ける程度の微細な変化が絶え間なく積み重なっていくため、その街は今も変わらず活気に満ちているにもかかわらず、どこか「本来あるべき姿」から少しずつ遠ざかっているような、言葉では説明できない不気味さを帯び始めていた。
その違和感を決定的なものへ変えたのは、一人の少女だった。
先ほどまで市場の中央で母親らしき女性と笑い合っていた幼い少女が、買い物籠を抱えたまま立ち止まり、不意に何もない空間へ向かって手を振ったのである。
「お兄ちゃん、ばいばい!」
その声へ反応する者はいない。
母親も。
商人も。
旅人達も。
まるで聞こえていないかのように会話を続けている。
しかし。
少女だけは確かに、サク達のいる方向を見て笑っていた。
「……俺達が見えてる?」
サクが小さく呟く。
リルは即座に否定する。
「いえ、視線は微妙にずれています」
「では誰を……」
その時。
少女の笑顔が突然消えた。
そして、怯えたように一歩後ずさる。
「……だれ?」
小さな声。
次の瞬間。
少女の背後の景色が音もなく崩れた。
建物が崩壊したわけではない。
市場が爆発したわけでもない。
空間そのものが、一枚の紙を破るように裂けた。
裂け目の向こう側には光も闇も存在しない。
色がない。
音がない。
距離という概念すら失われた、形容し難い「空白」が広がっていた。
サクは息を呑む。
その光景は、地下遺跡で遭遇した《未登録領域》とどこか似ていた。
だが。
決定的に違う。
あの空間には「何も存在しない」という静けさがあった。
しかし今、目の前で口を開けている裂け目からは、明確な悪意とも呼べる視線だけがこちらへ向けられていた。
「リル」
「確認しています」
彼女の声には珍しく焦りが混じる。
「空間構造が成立していません」
「成立してない?」
「通常、世界は座標情報・時間情報・存在情報の三つによって維持されています。しかし、あの裂け目にはそのどれもありません」
「じゃあ何なんだよ」
リルは数秒間沈黙した。
そして。
「……世界の外側です」
その一言で、周囲の空気が凍り付く。
グレン老人が険しい表情を浮かべる。
『見てはならぬ』
『あそこだけは、見るな』
ヴァルガが都市全体を揺らすほどの咆哮を放つ。
炎柱が一際強く燃え上がり、龍脈導管を巡る光が一斉に加速すると、都市全域へ張り巡らされていた結界が幾重にも重なり合い、裂け目を押し潰すように赤金色の光が流れ込んでいく。
しかし。
裂け目は閉じない。
むしろ。
ゆっくりと広がっていく。
そして。
その奥から、一つの「声」が響いた。
『……また』
男とも女とも判別できない。
老人にも子どもにも聞こえる。
聞く者によって印象が変わる、不自然な声。
『また、見つけた』
サクの背筋へ冷たいものが走る。
この声。
時計塔で聞いたものと同じだ。
だが今度は違う。
はっきりと、自分へ向かって語り掛けている。
『お前は』
『何故』
『まだ、消えていない』
その瞬間。
サクの視界へ大量のシステムログが滝のように流れ始める。
⸻
【ERROR】
修正対象を確認
対象:《未登録旅人》
修正を開始します
……
失敗
対象が定義されていません
再試行
……
失敗
存在情報を取得できません
再試行
……
失敗
⸻
「なっ……!」
サクは思わず頭を押さえる。
膨大な情報が流れ込み、視界が白く染まる。
その中で。
ほんの一瞬だけ。
誰かの姿が見えた。
巨大な白い樹。
空へ届くほどの幹。
枝先には無数の光。
その一本一本が、誰かの人生のように揺れている。
しかし。
中央部分だけが黒く朽ちていた。
そして、その樹の根元には。
七つの光が存在していた。
赤。
青。
緑。
白。
黒。
金。
そして。
灰色。
七つの光は、それぞれ別方向へ伸びながらも、全て一本の根から生まれている。
だが、その映像は一瞬で途切れた。
次の瞬間、サクは市場の石畳へ膝をついていた。
「サク!」
アカネが駆け寄る。
「大丈夫!?」
「……ああ」
息を整えながら頷く。
「なんか、変なものが見えた」
「何を見ましたか」
リルが真剣な表情で尋ねる。
サクはゆっくりと答える。
「木だ」
「すごく、大きな木」
「そこから七つの光が伸びてた」
その瞬間。
ヴァルガが目を見開いた。
グレン老人の杖が床へ落ちる。
アカネの表情から笑顔が消える。
三人とも。
その言葉だけで十分だった。
『……何故』
ヴァルガが低く呟く。
『何故、お前が《原初樹》を見た』
リルも困惑している。
「本機の記録領域に、その名称は存在しません」
しかし。
世界そのものは。
確かに、その名を知っていた。
その時。
歴史侵蝕は突然止まる。
市場の揺らぎも。
裂け目も。
黒い紋様も。
まるで何事もなかったかのように消え去った。
静寂。
そして、ヴァルガはサクだけへ聞こえるほど小さな声で告げる。
『……急がねばならぬ』
『奴らがお前を認識した』
その一言だけを残し、祖竜はゆっくりと目を閉じた。
都市には再び穏やかな時間が流れ始める。
しかし。
もう誰一人として、それが永遠に続くとは思っていなかった。




