空を覆う輪
誰にも観測されていないはずの深淵で巨大な存在が微かに笑った直後、第一封鎖層全体へ響いていた低い振動はそれまでとは質を変え、まるで遠く離れた場所から巨大な鼓動がゆっくりと伝わってくるかのような不気味な律動へ変化していたため、サクは自然と視線を足元の床へ向けながらも、自分の立っているこの場所よりさらに下に何が存在しているのかという興味を抑えきれずにいた。
隣ではリル=アーカイブが普段の落ち着きを完全に失い、空中へ幾重にも展開された半透明の情報板へ高速で視線を走らせながら状況確認を続けており、その姿は先程までの「静かな案内役」という印象から一変して、本来の役目である管理機構としての顔を露わにしていた。
「深淵存在覚醒率上昇を確認、第一封鎖層安定率低下、第二封鎖層との同期率低下、外殻観測機構再起動を確認、予測モデルとの差異が拡大しています……こんなこと、本来ならあり得ないはずなのに……」
焦りの滲んだ声でそう呟くリルに対して、正体不明の人影は相変わらず困ったような笑みを浮かべていたが、その雰囲気には先程までの余裕は存在せず、どこか予想外の事態を前にして苦笑しているようにも見えた。
「やっぱり君でも予想できなかったか、リル。いや、むしろ予想できてたら困るんだけどね。こっちとしてもまだ数百年くらい猶予があると思ってたんだよ。だからサクと会うのももっと後になる予定だったし、第一封鎖層の認証だってこんなに早く始まるはずじゃなかった。まあ、予定通りにいかないのが世界ってやつなんだけど」
「数百年……?」
サクは思わず聞き返す。
何気なく流された言葉だった。
しかし普通に考えて数百年という時間を「少し予定がずれた」程度の感覚で話す人間など存在しない。
それはゲームのNPCだからなのか。
それとも別の何かなのか。
疑問は増えるばかりだった。
だが、その時だった。
巨大な円環構造物の中心へ展開されていた世界各地の映像が次々と切り替わり始める。
王国。
帝国。
砂漠国家。
海洋都市。
雪原地帯。
それぞれの地域で昼夜も気候も異なっているにもかかわらず、一つだけ共通しているものがあった。
空。
世界中の空に、巨大な薄い光の輪が浮かび始めていたのである。
肉眼ではほとんど認識できないほど薄い。
しかし確かに存在している。
まるで世界そのものを覆う巨大な殻の輪郭が、ほんの僅かだけ姿を見せ始めているかのようだった。
「綺麗だな」
思わず漏れたサクの感想に、人影とリルは同時に振り向く。
「綺麗……?」
「うん。なんかイベントっぽいし」
その言葉にリルが呆然と目を瞬かせる。
「継承候補者……これはイベントではありません。観測機構外殻の可視化現象です。本来、世界内部の住人はもちろん、外部から訪れた旅人であっても認識できないはずのものが現在進行形で可視化されています。つまり、世界法則の安定性そのものに異常が発生している可能性が……」
「うーん、難しい話はよく分からないけど、綺麗なものは綺麗だろ?」
あっけらかんと返したサクに、リルは完全に言葉を失う。
そんな二人のやり取りを見ていた人影は小さく吹き出した。
「ははっ、やっぱり面白いなぁ。普通の継承候補なら恐怖とか不安が先に来るんだけど、君の場合は先に感想なんだね」
「そんなもんか?」
「そんなもんじゃないよ。だから面白いんだけど」
その直後。
映像の一つが拡大される。
王国中央都市。
広場には無数のプレイヤーが集まり、誰もが空を見上げていた。
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【World Anomaly Online 総合掲示板 Part133】
512:名無しの冒険者
おい誰か空見ろ
513:名無しの冒険者
いやこれマジで何?
514:名無しの冒険者
流星群イベント?
515:名無しの魔法使い
星座の位置が昨日と違うんだけど
516:名無しの解析勢
天文学スキル持ち数人で確認した
空のデータ自体が変化してる
517:名無しの冒険者
は?
518:名無しの解析勢
昨日存在していた星が二つ消えてる
逆に新しい光点が三つ増えてる
519:名無しの冒険者
そんなことある?
520:名無しの冒険者
運営の隠しイベントだろ
521:名無しの解析勢
違う
内部データにも存在しない
522:名無しの冒険者
またかよ
523:名無しの冒険者
最近「存在しない」が多すぎるだろ
524:名無しの冒険者
地下遺跡勢が何かやってんじゃね?
525:名無しの冒険者
また地下遺跡か
526:名無しの冒険者
でもタイミングが毎回同じなんだよな……
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一方その頃。
大陸北方。
誰も踏み込めない極寒地帯。
吹雪の中で停止していた巨大な氷塊へ、微かな亀裂が走る。
西の海底。
数千年もの間沈黙していた神殿の壁面に刻まれた文字が淡く発光し始める。
南方の樹海。
誰も存在を知らない地下空洞で眠っていた古い石像が、まるで何かを感じ取ったかのようにゆっくりと首を上げる。
それら全ては偶然ではない。
世界の各地に存在する何かが、同じ瞬間に目覚め始めていた。
そして第一封鎖層。
映像を見つめていた人影は、僅かに表情を曇らせながら静かに呟く。
「まずいな……想像以上に広がってる。これだと連中まで気付くかもしれない」
「連中?」
サクが問い返す。
しかし人影は答えない。
代わりにリルが凍り付いたような顔で空中の一つの情報板を見つめていた。
「そんな……あり得ません……」
「どうした?」
「第二封鎖層……起動反応」
「第三封鎖層……同期開始」
「第四封鎖層……観測再開」
「第五封鎖層……」
そこでリルの声が止まる。
少女の顔から血の気が引いていく。
「……嘘」
「嘘です」
「第七封鎖層まで反応しています」
人影から笑みが消えた。
「第七まで?」
「おかしい」
「それは流石に早すぎる」
そして。
初めて。
その存在が焦りを見せた。
「サク」
人影が静かにこちらを見る。
「悪いけど、予定変更だ」
「君にはもう少しゆっくり旅をしてもらうつもりだったんだけど、どうやら世界の方が君を待ってくれないらしい」
その声は。
どこか懐かしく。
そして少しだけ寂しそうだった。
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【世界任務更新】
《深淵より響くもの》
進行率:0.1%
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【新条件追加】
【封鎖層管理者との接触】
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【警告】
【複数の観測者が起床を開始しています】
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誰も知らない場所で。
誰にも見つかっていない深淵の底で。
再び。
何かが目を開いた。




