8 全部捨てても、彼女はいらない
誤字や不自然な表現などがありましたら、教えていただけると助かります。
――二ヶ月前まで、時間を戻す。
あの頃、かろうじて「家」と呼べていた場所は、いつの間にか、火薬の匂いが染みついた戦場になっていた。
レミナの両親の結婚生活は、そこで終わった。
残ったのは――
ひっくり返されたパレットみたいに、色がぐちゃぐちゃに混ざって、濁って、歪んだものだけ。
レミナの心にいちばん深く残ったのは、割れたカップの音でも、怒鳴り合いでもなかった。
離婚の前の夜。
目の前で交わされた――自分をどうするか、という話。
リビングには煙がこもっていた。
息が詰まりそうな重たい空気。
「私に引き取れって? 冗談でしょ」
母の声は冷たくて鋭い。
赤いネイルの指先で、苛立たしげにテーブルを叩く。
「いらないわよ。この子の顔見るたびに思い出すもの。
あなたが私が妊娠してるときも浮気したこと」
吐き捨てるように。
「親権はあなたが持って。
こっちはもう、再婚相手の家に子どもいるんだから」
「俺がか?」
ヴェールは鼻で笑った。
吸っていた煙草を灰皿に押しつける。
「男一人で娘育てろって? 冗談きついだろ。
それに、もうすぐ大学だぞ。金もかかる」
冷めた声。
「母親なんだから、そのくらい責任持てよ」
「お金の話?」
母は一瞬だけ言葉を詰まらせたあと、吐き出した。
「財産なんていらない。 家も貯金も、全部あなたにあげる」
かすれた声。
その視線が一瞬だけレミナに向く。
――申し訳なさそうに、けれどすぐに逸らされた。
「私が欲しいのは自由よ。
あなたに関わるもの、全部いらない」
――全部捨てても、彼女はいらない。
そういうことだった。
レミナは、その場に立っていた。
体の中の熱が少しずつ冷えていく。
指先がかすかに震える。
やがて母は望んだ通り、自由を手に入れた。
そして、完全に消えた。
父は望んだ通りすべてを手に入れた。
残ったのは――レミナだけ。
一ヶ月後。
待ちきれなかったみたいに、父は新しい女を家に入れた。
メイベル。
その隣にいたのが――シエラ。
レミナより、たった一ヶ月だけ年上の――“姉”。
レミナの世界は、足元から音もなく崩れ落ちた。
一番近くにいたはずの人たちに、順番に手放されていく。
自分という存在そのものが間違いだったみたいな、どうしようもない絶望が黒い波みたいに一気に押し寄せてきた。
人気のない夜。
静まり返ったその中で、レミナは限界を迎えた。
溜め込んでいた薬を一気に飲み込み――終わらせようとした。
けれどそんな結末すら、彼女には許されなかった。
量が足りなかった。
ただそれだけの理由で、すべては未遂で終わった。
意識が遠のく中、ぼんやりと声が聞こえる。
メイベルが慌てるヴェールを引き寄せて、いつもの調子でなだめていた。
「ヴェール、心配しすぎないで。お医者さんに聞いたんですよ。 数錠くらいから、洗浄して吐かせれば問題ないって」
一拍おいて、ため息まじりに続ける。
「……この子、ただ気を引きたかっただけですよ。 あなたに心配してほしくてね。 理解できなくないけどね――」
その言葉で、ヴェールはようやく動いた。
わずかにあったはずの“心配”は、次の瞬間には怒りに塗りつぶされていた。
彼はベッドに歩み寄り、青ざめたレミナを見下ろす。
そこにあったのは、憐れみではなく、露骨な苛立ちだけだった。
「何のつもりだ?」
耳障りなほど鋭い声。
「父親に向かって、泣き喚いて、自殺まがいの真似で脅す気か?」
言い終わるより早く、乾いた音が病室に響いた。
レミナの頬を叩かれた。
「死にたいなら外で死ね!」
怒鳴り声が空気を震わせる。
「誰も助けやしない。お前の母と同じだな……薄汚い真似しやがって」
レミナの頬はじんじんと痛むのに、胸の奥はもう何も感じなかった。
レミナは目を閉じた。
涙だけが静かにこぼれて枕を濡らす。
死ぬことすら卑しい打算だと決めつけられる。
「もういいじゃない、まだ具合も悪いんだし」
メイベルが軽くヴェールの腕を引いた。
「ねえヴェール。前から決めてた家族旅行……スキーのこと、今回はやめたほうがいいんじゃない?」
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