25 ごめん、アルタイル
誤字や不自然な表現などがありましたら、教えていただけると助かります。
期末が近づくにつれて、校内に響くチャイムがやけに耳に残るようになった。
窓の隙間から入り込む冬の風は冷たくて、
教室に残っていたわずかなぬくもりさえ、あっさりとさらっていく。
恋をしている人間にとって、冬休みなんて――
楽しい休暇じゃない。
ただの「別れ」だ。
アルタイルはここ最近で見違えるほど真面目に勉強していた。
けれど「冬休み」という言葉にだけは、露骨に顔をしかめる。
落ち着きがない。
やたらと距離が近い。
無駄に話しかけてくる。
休み時間。
アルタイルは机に突っ伏し、腕の上に顎を乗せたまま、じっとレミナを見ていた。
黒い瞳は、逃がす気なんて最初からないみたいにしつこい。
声は低くて小さいのに、なぜか逆らえない響きを帯びている。
「レミナ」
ぼそりと呼ぶ。
「休みに入っても、毎日連絡しろ。 夜九時、絶対な」
「うん」
「俺のことも思い出せ。最低でも……三回」
間を置いて指を折る。
「朝起きたとき、昼飯のとき、寝る前」
「……うん」
「俺、お父さんと一緒に実家帰るから、たぶん七日か八日まで戻れねえ」
少しだけ声が低くなる。
「戻ったら、すぐ会いに行く。だから――絶対、会いに来い。いいな?」
「……うん」
レミナの返事はどこか上の空だった。
頷いてはいる。
けれど心ここにあらずという感じで、まるで意識だけ、どこか遠くへ置き忘れてきたみたいに。
――その違和感が。
理由もわからないまま、アルタイルの胸に引っかかった。
小さくざらついたまま。
アルタイルはそのまま彼女の首元に顔をうずめた。
くぼみに額を押しつけるようにして、髪に残るかすかな香りを吸い込む。
甘えるみたいに、無意識に鼻先で彼女の肌をこすりながら、くぐもった声で言った。
「レミナ……俺、冬休みとかマジで嫌いなんだけど。なんであんなのあんの? ずっと学校でいいだろ……」
襟元に埋もれた声は、どこか鼻にかかっている。
言っていることは子どもみたいなのに、その響きだけ妙に甘ったるい。
かつて――あの「本なんか一冊も読まねえ」と言い切ってた男と同一人物とは思えない。
ほとんど冗談みたいな台詞。
レミナは笑えなかった。
「なあ……」
アルタイルはふいに顔を上げる。
目だけがやけに明るくて、危ういくらいの熱を帯びている。
「決めた。俺、家帰らねえ。
学校の近くで家を借りる。お前も来いよ。一緒に住めばいいだろ」
言いながら、自分で納得したのか、声がどんどん弾んでいく。
指を三本立てて畳みかける。
「約束する。 ちゃんとやる。 勉強の邪魔もしねえ。
……だから、ただ一緒にいたいだけだ」
まっすぐな視線。
「レミナ、うるさいとか思うなよ。ふざけてねえ。本気だから」
その目は頷きさえすれば、本当に全部やってしまいそうだった。
この場で決めて、この場で動いて、彼女のためだけの場所を作ってしまいそうな勢い。
けれどアルタイルが近づけば近づくほど、彼の言葉が未来の形を帯びていくほど、
レミナは何も言えなくなっていった。
俯いたまま、黙り込む。
長いまつげが頬に影を落とし、唇はかたく結ばれている。
何かを押し殺すみたいに。
ふと、彼女は視線を落とした。
自分の足元、靴下の上から、すねのあたりを指で強く押した。
白い肌にじわりと指の跡が浮かび上がって、ゆっくりと消えていく。
それを確かめるように見つめてから、何事もなかったみたいに靴下を引き直した。
アルタイルの描く未来は眩しすぎる。
引き寄せられるほど。
胸の奥に沈んでいた冷たいものが形を持ちはじめる。
近づかれるほど、怖くなる。
あんなふうに、迷いなく想われて。
自分は――
それに、応えていいのか。
「レミナ……俺、なんかしたか?」
ようやく違和感に気づいたのか、アルタイルの声にわずかな焦りが混じる。
気遣うように手を伸ばし、彼女の頬に触れようとした。
けれど指先が触れる直前、ほんのわずかに、レミナは身を引いた。
自分でも気づかないくらい小さな動きだが、彼には十分すぎるほどだった。
「なんで……何も言わねえんだよ」
抑えた声。
それでも滲み出るのは焦りとほとんど懇願に近い響き。
「レミナ……」
「レミナ……」
「レミナ……」
何度も彼女の名前を呼ぶ。
繰り返すたびに、その音が胸の奥へと沈んでいく。
小さな衝撃みたいに、壊れかけた心を何度も叩くように。
やがてアルタイルは再び、彼女の首元に額を寄せた。
すがるように、夢を見るみたいな声でつぶやく。
「なあ、レミナ。受験終わったらさ……一緒に北海道、行こうぜ。雪見に」
ぽつり、ぽつりと続ける。
「調べたんだ。向こうの雪、めちゃくちゃ綺麗らしい。
一面真っ白でさ、静かで……別世界みたいだって」
少しだけ顔を上げる。
まっすぐな目だった。濁りなんて、どこにもない。
「一緒に見よう。二人で、……な?」
その瞳を見てしまったから、レミナは無理やり口元を引き上げた。
せめて彼を安心させるために。
「……うん」
頷いた、その瞬間、胸の奥を細く鋭い痛みが突き抜けた。
息が詰まる。
思わず目を閉じる。
それでもレミナはなんとか顔を上げる。
見られないように、手は机の下へ。
指先が白くなるほどに服の裾を強く握りしめる。
「……きっと、綺麗だね」
小さくそう付け足した。
声が震えないようにするだけで、精一杯だった。
その痛みはまるで警告みたいだった。
さっきまで目の前にあった、彼と一緒の未来――
あの白くて静かな景色から、容赦なく現実へ引き戻す。
――ごめん、アルタイル。
冷たい声が頭の奥で響く。
――あなたはもっと広い世界に行くべき人だ。
――太陽の下で、自分の足で立って、好きな場所へ行って、見たいものを全部見るべきだ。
――だから。
――未来のない誰かに、足を引っ張られるなんてことは――
あっていいはずがない。
隣でアルタイルが話している。
真剣な声で、ひとつひとつ言葉を重ねながら、彼らの未来を当たり前みたいに描いていく。
そして彼女には決して届かない、壊れやすい夢だった。
胸がきつく締めつけられる。
鈍い痛みが何度も波みたいに押し寄せる。
――言わなきゃ。
あの冷たい声がまた頭の奥で響く。
――今すぐ。
――もう未来はないって。
――その体じゃ、北海道の雪なんて見に行けないって。
その言葉を口にした瞬間のことが簡単に想像できた。
アルタイルの笑顔が止まる。
あのまっすぐな目が見開かれてやがて、傷ついた色に変わっていく。
それはきっと、彼女には耐えられない。
――いや……まだ。
もう一つの声がかすかに抗う。
――もう少しだけでいい。
――このまま、聞いていたい。
――私のいる未来を語る彼の声をもう少しだけ、あの笑顔をあと一度だけでも。
――ほんの一秒でいいから。
ふらり、と視界が揺れた。
慣れた感覚。
心臓が限界だと訴えている。
レミナはそっと胸に手を当てる。
押さえ込めるはずもないのに、痛みも、罪悪感も、全部。
――私、最低だ。
胸の奥で、言葉が沈む。
――彼の気持ちに甘えてる。
――壊れるってわかってるのに、この時間にしがみついてる。
――自分のために、偽物の未来を見せてる。
その先にある結末なんて、最初から決まっているのに。
やがて言葉は出てこなくなった。
何も言えないまま、ただ黙って聞く。
彼の声も、仕草も、表情も。
ひとつ残らず、刻みつけるみたいに胸に落としていく。
まるでこれが最後だとわかっているみたいに。
アルタイルの想いはあまりにも強くて、迷いがなくて――どこまでも純粋だった。
だからこそ。
それは踏み込んではいけないほど綺麗な夢に見えた。
そしてその夢が終わる瞬間が、すぐそこまで来ていることも、はっきりとわかっていた。
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