14 「専用」問題集
誤字や不自然な表現などがありましたら、教えていただけると助かります。
夜の自習のチャイムはとっくに鳴り終わり、教室にはペン先が紙を走るさらさらという音と、ときおり抑えた声で交わされる議論だけが残っていた。
頭上の蛍光灯は低く一定のうなりを響かせながら、机の下に長い影を落としている。
レミナは鞄から数冊の新しい問題集を取り出した。
表紙には『高校数学 基礎完全マスター』と印字されている。
それをそっと、隣の新しい相席であるゼロスの机の端に置いた。
ページの端にはまだかすかにインクの匂いが残っている。
「これ、ゼロスくんの苦手に合わせて選んだものです」
レミナの声はいつも通り、感情はほとんど乗っていない。
「わからないところがあったら、聞いてください」
ゼロスはきれいに積まれた問題集を見て、ぱちくりと目を見開いた。
「うお、マジか!?」
両手を合わせ、大げさに——それでも声はちゃんと潜めて。
「サンキュー、レミナ先生ちゃん!このご恩、一生忘れません!
期待には全力で応えさせていただき——」
そこまで言いかけた、そのとき。
「ドンッ!」
鈍い音と同時に、ゼロスがびくっと跳ねた。
「ってぇ!? なにすんだよ、アルタイル!?」
いつの間にか姿勢を崩していたアルタイルがだらりと伸ばしていた長い脚をゆっくり引き戻す。
まぶたすら持ち上げず、面倒くさそうに一言。
「……滑った」
「嘘つけ!」
ゼロスは蹴られた脛を押さえながら、顔を引きつらせる。
――いやいやいやいや!完全に狙ってただろ今の!!
心の中では絶叫しつつも、表情はなぜか妙ににこやかだ。
泣き顔に近い笑顔で、ひらひらと手を振る。
「大丈夫大丈夫~!アルタイルくーん?そっちこそ足、大丈夫~?
滑ってケガとかしてない~?」
歯ぎしりしながらの気遣いだった。
アルタイルは鼻で小さく笑った。
短く冷たい音で。
それだけで、返事は十分だった。
最初から最後まで、レミナは一度も顔を上げなかった。
手元の基礎問題の解説に目を落とし、静かに読み進めている。
長いまつげが頬に淡い影を落とし、
すぐ隣で起きたささやかな「騒動」も、二人の妙なやり取りも、まるで視界に入っていないかのようだった。
だがアルタイルの視界の端に映ったのは、そんな彼女の無関心な横顔とゼロスのために用意された「専用」の問題集。
アルタイルの胸の奥でなにかがざわりと逆立った。
視線の奥に、じっとりとした影が落ちる。
「……っ」
苛ついたまま、乱暴に髪をかき上げると、無理やり視線を窓の外へ逃がした。
暗い夜空がやけに目に刺さる。
一方でゼロスはまだじんじんする脛をさすりながら、横にいるアルタイルの空気をちらりと盗み見た。
――あー……これ完全に嵐来るやつだな。
心の中でそっと手を合わせる。
――……南無。俺のスネ、しばらく持たねぇかもしれん。
そのとき——
ふわりと、甘い香りが流れ込んできた。
シエラだ。
白鳥みたいにしなやかな足取りで、アルタイルの机の横へと歩み寄る。
その手には淡いピンクの表紙のルーズリーフノート。
装飾の凝った、いかにも“女の子らしい”一冊だった。
シエラはそれをそっとアルタイルの答案用紙の上に重ねた。
あの五点の答案用紙、そして、その上に積み重ねられた計算用紙。
どれも、レミナの細かな文字でびっしりと埋め尽くされている。
「アルタイルくん」
シエラの声はやわらかく、顔にはかすかな照れを混ぜた励ましの笑み。
「これ、昨日あなたのレベルに合わせて作ってみたの。
市販の問題集より、今のあなたにはこっちのほうが合うと思って」
言いながら、視線が一瞬だけ横へ流れる。
ゼロスの机の上レミナが置いた『基礎完全マスター』へ一瞥した。
レミナの手元で、一定のリズムで動いていたペン先が一瞬だけ止まった。
そのせいで、計算用紙に小さなインクの滲みが残る。
シエラは少し身を乗り出した。
さらりと流れた髪が肩からこぼれ、一筋の柔らかな毛先が風に揺れて——アルタイルの手の甲をかすめる。
彼女はそのまま確信に満ちた調子で言葉を続けた。
「落ち込まないでね。
今の成績がよくなくても、それはあなたの問題じゃないわ。
まだ自分に合ったやり方と教材に出会ってないだけ。
だから、いきなりあんな複雑な解き方を押しつけるのは……少し早すぎると思うの」
言外の棘はきれいに包まれている。
これを聞いたレミナは、指先にわずかに力がこもった。ペンを握る関節がかすかに白くなる。
「私はね、こう思ってるの
“教えられない生徒なんていない。 ただ、教え方が合ってないだけ”って。
ちゃんと向き合って、正しい方法を見つければきっと変われる!
アルタイルくん、一緒に――」
「わかった」
アルタイルがあっさりとシエラの言葉を遮った。
彼は顔を上げ、まっすぐシエラを見る。
その視線は最後まで話を聞いてやったというように落ち着いている。
少しだけ眉を上げて、口元にうっすらと笑み。
妙に“協力的”な声音で。
「じゃあ——頼む」
その一言で、シエラの胸の内に、ぱっと光が弾けた。
花火みたいに広がった喜びがそのまま目元と口元に滲む。
彼女は一瞬だけ視線を流し、後ろにうつむいたままのレミナを見た。
勝ち誇るような一瞥だ。
弾む声はやる気と自信に満ちていた。
「うん、アルタイルくん、任せてくださいね」
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