第88話 誰も、何も言わなかった
翌朝、宿の一室に日差しが差し込んでいた。先生は昨日より幾分か表情が和らいで見えた。誰もそのことには触れなかったが、変化に気づかない者はいなかった。
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澪は朝食の支度を手伝いながら、先生の様子を目の端で追っていた。
自分が言い出したことだった。それが正しかったのかどうか、まだ確信は持てずにいる。先生が椅子に座り、水を飲む仕草をゆっくりと目で追う。震えていた指先が、昨日よりも落ち着いているように見えた。
先生がふと、小さく微笑んだ。ほんのわずかな表情の変化だった。それを見た瞬間、澪は詰めていた息を、静かに吐き出した。
安堵はした。それでも、自分が先生に決断を迫ったという事実は消えない。澪は手元の器に視線を落としたまま、しばらく顔を上げられなかった。
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楓は部屋の隅で、先生と零司の間に流れる空気の変化を見ていた。
昨日までとは違う、何か目に見えない距離の詰まり方があった。それに気づいた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
自分から始めたことだった。楓が最初に、零司の力になろうと動いた。それなのに、自分よりずっと年上で、立場も違う先生が同じ場所に立った途端、この感覚は何なのか。
嫉妬。その言葉が頭をよぎった瞬間、楓は自分の中でそれを慌てて打ち消した。そんなことを思ってはいけない。先生を助けたいという気持ちに、そんな不純なものが混じっていいはずがない。
零司が先生に何か言葉をかけている。その横顔を見ていられなくて、楓は視線を逸らした。逸らしてしまった自分に、今度は戸惑った。
袖の裾を、指先できつく握る。誰にも気づかれないように、楓はゆっくりと息を吐いた。それから顔を上げ、いつも通りの表情を作って先生の方へ歩み寄った。
「先生、お水、もう一杯いりますか」
声は、いつもと変わらないはずだった。
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瑠奈は少し離れた場所から、澪と楓、それぞれの様子を見ていた。
澪は分かりやすく安堵している。楓は何かを堪えているような、いつもと違う硬さがある。二人とも、隠しているつもりなのだろうが、瑠奈の目にはよく見えていた。
このままだと空気が重くなる。瑠奈はことさら明るい声を出した。
「先生、今日の朝ごはん、なに食べたいですか。私、探してきますよ」
先生が驚いたように瑠奈を見て、それから小さく笑った。少しだけ空気が緩む。
一人になった瞬間、瑠奈は表情を緩め、小さく息を吐いた。澪と楓、二人分の気遣いを背負うのは、ちょっと疲れる。それでも、誰かがやらなければならないことだった。
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朝食の席に、五人が揃った。誰も昨夜のことには触れなかった。ただ、それぞれの視線が、時折先生と零司の間を行き来していた。




