第87話 言葉にできないまま
夜明け前の薄闇の中で、先生は目を覚ました。隣で零司が寝息を立てている。その寝顔をしばらく見つめてから、先生は自分の手のひらに視線を落とした。
まだ、何かの感触が残っている気がした。
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これまでの人生で、誰かに委ねるということが、どれほどなかっただろう。研究のことばかり考えて生きてきた。分からないことがあれば自分で調べ、答えが出るまで一人で向き合ってきた。制御できない状況に身を置くことも、自分の弱さを誰かの前でさらけ出すことも、意識して避けてきたように思う。
昨夜のことを思い返すと、恐怖と羞恥だけが先に立った。震えていた自分の手、うまく言葉にならなかった言い訳めいた台詞。それでも――。
先生は、胸の辺りにそっと手を当てた。
思っていたよりも、自分の中に残っているものが違っていた。
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恐怖や後悔だけではない。ふとした瞬間、確かに安堵のようなものを感じていた。
それを認めることに、抵抗があった。教育者としての自分が、学者としての自分が、素直にそれを喜ぶことを許さない気がした。何十年もかけて積み上げてきた自分の輪郭が、たった一晩でぐらついている。そんな感覚だった。
零司の手が自分の手を包んだ時の感触。無理はしないでくださいと言った、あの掠れた声。何と言えばいいのか分からないまま、それでも気遣おうとしていた不器用さ。
それらが今、自分の中で思いのほか大きな場所を占めていることに、先生自身が驚いていた。
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先生としての自分と、今の自分の間に、小さな亀裂のようなものがある。それをどう埋めればいいのか、あるいは埋める必要があるのかどうかさえ、まだ分からなかった。
同じ場所を何度も巡るように、思考が堂々巡りを続けた。答えは出なかった。
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先生はもう一度、零司の寝顔に目をやった。それから自分の胸の辺りに、もう一度手を当てた。
言葉にできないまま、先生はゆっくりと目を閉じた。窓の外では、夜がまだ明けきらずにいた。




