第86話 無理、してませんか
夜が更ける頃、楓が瑠奈の背中を軽く押すようにして、二人で先に部屋の隅へ移動した。澪も何も言わず、その後に続く。誰も多くを語らなかったが、それぞれの気遣いが、その動きだけで伝わってきた。
零司は先生と二人、薄暗い部屋に残された。
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何から切り出せばいいのか、分からなかった。零司は視線を先生の顔と床の間で何度も往復させた。
先生は正座に近い姿勢で座ったまま、膝の上で手を組んでいた。指先がかすかに動いている。
「無理、してませんか」
やっと出てきたのは、そんな言葉だった。
「大丈夫よ」
先生の声は、いつもより一段高かった。「これでも、人並みには……」
言葉が途中で濁った。零司が黙っていると、先生は視線を逸らしながら早口で続けた。
「知識としては、知ってるから。心配、いらないわ」
その言い方が、かえって何かを隠そうとしているように聞こえた。零司は先生の膝の上の手を見た。指先が、さっきよりも強く組み合わされていた。
「本当に、大丈夫ですか」
もう一度尋ねると、先生は一瞬だけ黙った。それから、視線を落としたまま小さく呟いた。
「経験、ないの。こんな歳になって、恥ずかしいけど」
自嘲めいた響きだった。零司は何と返せばいいか分からず、しばらく黙っていた。
「こんな、年上でいいの? 私……」
先生の声が、初めて弱くなった。零司は首を振った。
「先生だから、とかじゃないです」
それだけ言うのが精一杯だった。先生はしばらく零司の顔を見つめ、それからようやく肩の力を抜いたように見えた。
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近づくと、先生の手が微かに震えているのが分かった。零司がその手に触れると、先生の肩がびくりと揺れる。
「ごめんなさい、私……」
言葉が途中で止まる。慣れない仕草で、それでも取り繕おうとするように、先生は小さく笑ってみせた。その笑みが、かえって痛々しく見えた。
「無理はしないでください」
零司がそう言うと、先生は首を横に振った。
「これは、私が決めたことだから」
震える声に、それでも芯のようなものがあった。零司の胸に、切なさに似た何かが広がった。何と言えばいいのか分からないまま、ただ先生の手を包むように握った。
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灯りが落ちた。
衣擦れの音だけが、しばらく部屋に響いていた。
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静けさが戻った頃、二人は並んで横になっていた。天井を見上げる先生の横顔を、零司はしばらく見つめていた。
視界の端に、いつものステータス表示が浮かぶかどうか、意識せずにはいられなかった。何も表示されなかった。
先生も何かに気づいているのか、いないのか、表情からは読み取れなかった。ただ静かに、天井の一点を見つめ続けていた。
「先生」
呼びかけたが、続く言葉が出てこなかった。
先生はゆっくりとこちらを向いた。何かを言おうとして、しかしそれも言葉にならないまま、また天井に視線を戻した。
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しばらくして、先生の呼吸が規則的になっていった。浅い寝息が、静かな部屋に満ちる。
零司はその横顔を見つめたまま、動けずにいた。それから、そっと天井を仰いだ。




