第83話 九十九くん、だったかな
四人がそっと離れていく気配がした。先生は棚の陰になった一角に身を寄せ、崩れかけた木箱に背を預けた。
顔を覆っていた手を下ろす。指先が冷たいのに、頬にはまだ熱が残っていた。自分の手のひらを見つめる。震えは、まだ収まっていなかった。
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高校の教壇に立っていた頃の記憶が、脈絡もなく浮かんでは消えた。もっと専門的な研究がしたい、その一心で教師を辞めた。大学の講師になって、まだ二年目。授業の評判は悪くないと聞いていた。誰かに認められることに、それなりの手応えを感じていた。
その代わりに、何を後回しにしてきただろう。
恋愛らしい経験は、数えるほどもなかった。研究のことを考えている方が、よほど心が落ち着いた。誰かと親密になることに、自分から距離を置いてきた自覚はあった。心配性で、運動も苦手で、私生活はズボラだと自分でも分かっている。そういう素の自分を、教育者としての自分の後ろに隠すようにして、ここまで生きてきた。
その2つを、今ここで切り離せなくなっている。
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澪の提案を、頭ごなしに拒んでしまった。今の状況を考えれば、選べる道が多くないことは分かっている。それでも、生徒に頼るという発想そのものに、身体が拒絶反応を起こした。教育者としての矜持なのか、それとも単なる羞恥心なのか、自分でも判別がつかなかった。
自分の消耗が、四人の負担になっている。それも分かっている。分かっているのに、感情がその理屈に追いついてこない。
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ふと、光の中で丸くなっていた頃の記憶が、断片的に浮かんだ。意識が朦朧とする中で、繰り返し思い出していた学生たちの顔。一ノ瀬、二階堂、三上。それぞれの顔がぼんやりと浮かんでは消えていった。
その中で、なぜか一番はっきりと残っていた顔があった。
いつも講義の後ろの方の席にいて、目立たない学生だった。何かを考えているような目をしていた。一度だけ、視線が合ったことがある。あの目に、何かを見透かされたような気がした。
九十九くん、だったかな。
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あの学生の印象と、彼の職業がもたらす行為とが、先生の中でどうしてもうまく重ならなかった。頭では理解していることが、感覚として飲み込めない。
拒絶したときの自分の声が、まだ耳の奥に残っていた。あの震えは、本当に教育者としての一線を守ろうとした結果だったのか。それとも、別の何かに動揺していただけなのか。
答えは出なかった。
物陰の向こうから、誰かの身じろぎする気配が微かに伝わってくる。先生は目を閉じ、自分の手のひらをもう一度見つめた。
分からないままの自分を、そのまま抱えているしかなかった。




