第79話 覚えている限り
先生の瞼が震えるように開いた。視線がしばらく天井をさまよってから、傍にいる澪に焦点を結んだ。
「二階堂、さん……」
掠れた声だった。先生は肘をついて身体を起こそうとした。その動きに気づいた楓がすぐに肩へ手を添える。
「まだ、寝てて」
先生は一瞬だけ抵抗するように力を込めたが、すぐに緩んだ。楓の手に体重を預けたまま、上体だけをわずかに壁へ寄りかからせる。
瑠奈が水筒を差し出すと、先生は震える手で受け取り、口をつけた。喉が上下に動く。飲み終えると、水筒を膝の上に置いたまま、四人の顔を順に見た。
「ここは……何が、あったの」
問いに、澪は一瞬言葉を探すように視線を下げた。拳が膝の上で固く握られる。楓と瑠奈が目配せを交わし、それから小さく頷いた。話す役目は、澪に委ねられていた。
⸻
澪は息を吸ってから、口を開いた。
「私たち、召喚されてから……ずっと、旅をしてきました」
ルーヴェ村でのダンジョン攻略、レベルを上げ続けた日々。アルヴェナへの転送、そこで感じた違和感の数々。声は最初、淡々としていた。事実を並べるように、順を追って話していく。
先生は時折、小さく相槌を打った。目は澪の顔から離れなかった。
「王都に来て、儀式があって……」
そこまで言って、澪の声が一段低くなった。
「5つの村と、王都を結ぶと、五芒星になるって、気づいたんです」
先生の喉がかすかに動いた。何か言おうとして、しかし言葉にならなかったのか、唇だけが薄く開いて閉じた。
「それだけじゃなくて……」
澪は一度、俯いた。指先が震えている。
「何か、あった気がするのに、思い出せないことが、何度もあって」
⸻
言葉を選ぶように、澪はゆっくりと続けた。
「魔物に囲まれたはずなのに、どうやって助かったのか思い出せなかったり……消えた人の噂を聞いたはずなのに、次の日には誰も覚えてなかったり」
零司は少し離れた場所で、その光景を見ていた。何も言わず、拳を握ったまま床の一点を見つめている。
「安全管理機構も、変なんです。襲われかけたときは、ちゃんと発動して……相手は、消えました」
澪の声がわずかに硬くなった。誰だったか、思い出そうとして、うまく像を結ばない。
「でも、村人に絡まれたときは、どうなるんだろうって。同じ攻撃行動でも、対象が違うだけで発動するのかどうか、分からなくて」
言葉を選びながら、澪は続けた。
「そこまで考えて……これ、私たちを守るためのものじゃなくて、縛るためのものなんじゃないかって、思ったんです」
先生の目が大きく見開かれた。息を呑む音が、静かな部屋の中でやけにはっきりと聞こえた。
「そんな……」
声が途中で途切れる。先生の視線が澪から離れ、床の上をさまよった。何かを整理しようとするように、眉間に深い皺が刻まれる。
⸻
「私が、ここに囚われている間に……」
先生の呟きは、誰に向けたものでもないようだった。指先が澪の方へ伸びかけたが、力が入らず、途中で止まる。
澪はその手を見て、自分の手を伸ばした。二人の指先が、かすかに触れた。
先生は何かを言いかけて、口を閉じた。目を伏せ、しばらく動かなかった。
沈黙が続く。楓が何か言おうとして息を吸ったが、結局何も言わずに視線を落とした。零司はその横顔を見て、まだ何かが残っていることに気づいたようだった。
先生がゆっくりと顔を上げ、四人を順に見た。
「他には」
短い問いだった。声はまだ掠れていたが、その目には、逃げるつもりのない強さが戻り始めていた。




