第78話 声にならなかった
王都の裏路地は、大通りの喧騒が嘘のように静かだった。
先生の腕を澪と楓が両側から支えている。足首から下に力が入らないのか、爪先が石畳を擦る音が時々混じった。零司は後ろを振り返りながら、三人と先生の歩調に合わせて歩いた。
「こっち」
先を歩いていた瑠奈が路地の角で立ち止まり、闇の濃い方向を指差した。人の声も足音も遠ざかっていく。しばらく行くと、板が何枚か外れかけた古い建物が見えてきた。倉庫だったのか、それとも何かの作業場だったのか、判断がつかない。扉の隙間から中を覗いた瑠奈が、小さく頷いて先に入っていった。
中は埃っぽく、割れた窓から差し込む月明かりが床に細い線を落としていた。澪と楓が先生をゆっくりと壁際に座らせる。零司は羽織っていたケープを外し、先生の下に敷いた。
「見てくる」
瑠奈が窓際に寄り、外の様子を窺う。息を潜めるようにしてしばらく動かなかった。
先生の呼吸は浅く、時折喉の奥で小さく音を立てた。閉じたまぶたが薄く痙攣するように動く。零司はその横に膝をつき、何をすればいいのか分からないまま拳を握った。
「治癒、かけてみる」
澪が先生の前に膝をつき、両手を胸の前で構えた。手のひらが淡く光り始める。集中しているのか、眉間に浅い皺が寄っていた。
光が先生の身体を包む。数秒、澪の額に汗が滲んだ。光が収まると、澪はゆっくりと手を下ろし、自分の手のひらを見つめた。
「……全部は、治らない」
呟くような声だった。先生の顔色はわずかに戻ったように見えたが、それだけだった。澪はもう一度先生の顔を覗き込み、それから視線を落とした。
「消耗してるのは、力とか体力っていうより……」
言葉が途中で止まる。誰も続きを促さなかった。
⸻
先生の呼吸が少しだけ落ち着いてきた頃、楓が立ち上がった。
「神官服のままだと、目立ちます」
短くそれだけ言うと、扉の隙間から外に出ていった。零司は反射的に手を伸ばしかけたが、その手を下ろした。引き止める理由も、一緒に行くべき理由も、うまく言葉にならなかった。
澪と瑠奈は何も言わなかった。瑠奈が窓際に座り込み、膝を抱えて壁にもたれた。澪は先生の隣に座ったまま、時々呼吸を確かめるように顔を寄せていた。
沈黙が続いた。誰かの服の擦れる音、遠くで犬が鳴く声、それだけが聞こえていた。零司は壁に背中を預け、両手を見下ろした。まだ震えが残っていた。
⸻
どれくらい経ったか分からない頃、扉が小さく軋んで楓が戻ってきた。手に灰色のローブを抱えている。
「古着屋で、買ってきました」
それだけ言って、先生の傍に膝をついた。澪と二人でローブを先生の肩にかけ、腕を通させる。意識が朦朧としたままの先生の身体は重く、二人がかりでようやく着せ終えた。
神官服は隅に丸めて置かれた。誰もそれ以上、何も言わなかった。
ローブに包まれた先生は、少しだけ呼吸が深くなったように見えた。零司はその横顔を見つめた。頬にかかった髪の一房が、呼吸に合わせてかすかに揺れている。
四人はそれぞれ壁際に座り込んだ。瑠奈は膝に顔を埋め、澪は先生の隣で膝を抱えたまま動かなかった。楓は少し離れた場所で、両手を握りしめていた。
零司は目を閉じかけて、ふと先生の方を見た。
まぶたがかすかに動いた。薄く開いた目が、ぼんやりと天井を映していた。それから、ゆっくりと零司たちの方へ向いた。
何かを言おうとするように唇が動いたが、声にはならなかった。
先生の目が、また静かに閉じた。




