07 : Day -27 : Kayabacho
ロキは不愉快な表情で、画面の残高を眺めている。
日本の警察も、なかなか侮れない。
──そろそろ相良も切り捨てどきかもしれない。
「心配ありませんよ、まだ金づるはいくらでも」
「黙れ」
向かい合った後部座席に、ロキともうひとり、いやらしい笑いを浮かべた悪魔──晴れているときに傘を貸し、雨が降ってきたら取り上げると評判の「銀行員」がいる。
ここは日本橋茅場町。
東京証券取引所をはじめ、多くの証券会社、銀行、フォワーダーが軒を連ねる、日本──いや、世界屈指のビジネス街だ。
「もし切り捨てるなら、そのまえに教えてもらえませんか。やっておくことがあるのでね」
「きさまには、ずいぶん稼がせてやったはずだがな、大牟田……いや、大魔王ルキフグス」
言うロキは人間の皮をかぶってはいるが、その上にはっきりと本性である悪魔の姿を浮かび上がらせている。
対面する男の本当の名を口にすると、銀行員の表情には悪魔の笑みが浮かぶ。
「お互い様でしょう、邪神ロキ。名高いトリックスターが、まさか警察ごときに」
「俺から話すことは、もうない。今月分の支払いなら、もう済ませただろう」
追い払うように手を振る。
まさか現金取引などはしないが、重要な暗号通貨の「現物」をやり取りすることは、まれにある。
いくつかの洗浄されたトランザクション履歴を、ハッキングのできない物理メディアとして保管しているのだ。
現代社会において、カネはほとんどの場合「数字」にすぎない。
日本円は、異世界線の暗号通貨マッカインとも、交換レートが定まっている。
この実体のない数字が、あらゆる世界で大きな意味をもつ「パワー」であることは、いままでのところ疑いない。
きたるべき「魔界地球」の地位を買うには、手持ちのカネは多いほうがいいだろう。
──いや、地位などはどうでもいい。
ロキは考える。
そんなことより、カネさえあれば、おもしろいトリックが仕掛けられるのだ。
軍勢も動かせるし、道具立ても整えられる。
「戦争とは、カネのかかるものですからな」
含み嗤うルキフグス。
この悪魔も、カネで大魔王の地位を買った。
茅場町を支配する、ある意味、もっとも生臭い悪魔といえる。
「戦争でカネを儲ける連中こそ、悪魔と呼ばれるにふさわしい」
「ロキ殿は、最前線で血にまみれるのがお好きかと思っていましたが」
「きさまは血塗られた紙幣を数えるほうが好きのようだな。──同額を用意しろ。来週も」
ロキは軽く首を傾け、手元の端末を操作する。
用意された資金が、つぎつぎと異なる口座へと移動していく。
「よろしいので?」
「かまわん。どうせ俺が減らしたところで、よそが増やすだけだ。どっちに転んでも、きさまが儲ける。好きにしろ」
ルキフグスは軽く肩をすくめ、ロキの操作する端末の裏側を眺める。
この指の動きひとつが、無数の人間の魂を地獄に叩き落す指示につながることは、想像に難くない。
「……ところで、警察について、おもしろい情報がありますぞ」
「マルドゥクの件か? 当面、やつとは距離を置くつもりだが」
「いえ、マルドゥクの息子のほうで」
ロキは、妹分であるマフユの表情を想起し、チッと舌打ちした。
害のない放置プレイのつもりだが、最近やけに気にかかる。
「あの、わけのわからぬガキか。捨ておけ。一応、妹の知り合いだ」
「よろしいのですか? ヘルさまは……」
ロキにおそろしい視線で凝視され、さすがの大魔王も首をすくめた。
軽く頭を下げ、辞去のあいさつもそこそこにリムジンを出る。
音もなく走り出す高級車を見送り、悪魔は周囲のビル街を見わたす。
莫大なマネーが渦巻くこの場所に、それらすべてを無価値にする爆弾もまた埋まっていることを、人々は知らずに生きている。
悪魔は笑い出しそうになり、すぐに表情を消した。
あと1か月足らずで、すべての答えは出る──。
「もめんこじゃないもん、ウサコだもん!」
地を這うような声が、チューヤたちの耳朶を打つ。
すさまじい速度で宙を舞う蛇より、脱兎のウサギはかろうじて速く、さらに別の場所で、鳥が羽ばたいて去った姿も見えた。
「ちっ、逃したか」
左右を見まわし、追いかける影の姿を見失ったことを吐き捨てるマフユ。
ようやく追いついたチューヤは、
「どうなってんだ、あの鳥なんだ?」
デビルアナライズでは、妖鳥のデータが表示されている。
どうやらウサコの仲間のようだ。
そちらを追跡してもいいが、まずはウサコからだろう。
「知るか。……おい、どうすんだ」
「まわりこむ。おまえはそのまま追え。左だ」
「どっちに逃げるかわかってんのかよ」
チューヤは自分の頭を指さし、
「地図はここにあるし、ああいう子の思考回路は、なんとなく読める」
追いかけっこというものは、必ずしも足の速い人間が勝つとはかぎらない。
チューヤの計略は、ほどなく効果をあげた。
悪魔使いの張った結界は、悪魔に対して強力な支配力を示す。
とくに使用者側の人間が悪魔の力を頼れば頼るほど、悪魔相関プログラムの干渉を受けやすい。
──数分後、地べたには捕獲されたウサコが座り込んでいた。
じたばた暴れる彼女を押さえつけ、ひっぱたこうとしたマフユの腕を押さえるチューヤ。
「やめとけ。おまえも、ほかの連中と同じかよ」
「……同じだよ。決まってんだろ」
吐き捨てながら、ともかく立ち上がって数歩、退いた。
代わりにチューヤはウサコのまえに腰を落とし、小動物特有の短い呼吸でパニック状態が落ち着くのを待つ。
やがて会話できる程度まで落ち着いたと判断し、
「どういうことだ? さっきの子は、だれだ?」
動物園は、すでにまだらに境界化している。
時間が経つごとに空気は変質し、あきらかに境界に巻き込まれつつあることを理解する。
チューヤとマフユは視線を交わし、目のまえの少女が境界化の元凶ではないことを確認する。
「……マナちゃん。わるくないよ。あたしたち。わるいのは、あいつらだもん」
いよいよ濃厚になってくる境界の空気は、すでに新しいゲームがはじまっていることを告げている。
チューヤは、遠くから響いてくる断末魔の絶叫を気にしながら、質問をつづける。
「境界ってわかるか? ここには、よくくるのか?」
「ここには夜しか、きちゃいけないんだよ。ほかのところとちがって、ここの悪魔は昼間、食べるから。公園には昼間、とってもひとが多いから。食べやすいんだよ」
他の場所もひとが多いのは昼間だが、とくにここは圧倒的な人口圧で満ち溢れる。
他の坂道とは異なるルールで動いている可能性があった。
「昼間くると、喰われるのか? なんで知ってる?」
「星の天使が怒ってる。あたしたちが呪ったから。つぶれたあの子が、言いつけた。仲御徒町エンジェル。だけど復讐しただけだもん。あたしたち、いじめられてた。だから、いっしょに復讐しただけだよ。わるくないでしょ。復讐は」
その理屈は面倒になるので否定も肯定もせず、チューヤは問いを重ねる。
「なにをやった? つぶれた女の子って、さっきの飛び降りた子か? 呪ったって、それじゃ、あの女の子を飛び降りさせたのは」
「トラネコさんに教えてもらったんだよ。ひとを呪うのは、呪われるようなことをしたからだよ。子猫だって殺したら、つぎは自分が殺されるんだよ」
よく意味はとりづらいが、どうやら復讐の呪詛をネコから教わったらしい。
一瞬、チューヤの視界に、どこかで見たことのある野良ネコの面影がよぎった。
子猫を殺した少年たちが、マンションから飛び降りて自殺した、というニュースが世田谷のほうから流れてきたことがある。
その後ヒナノには、ゴロウという名の復讐の呪詛についてくわしいらしい堕天使オセが取り憑いた。
チューヤの脳内に展開する悪魔全書によれば、上野界隈には、動物の姿をする悪魔たちが多く集まっている。
上野動物園という体なのかもしれない。どちらかというと御徒町動物園だが、オセ、イナバノシロウサギ、ストーンカなどといった悪魔の名前が、地図上には表示されている。
「そうか、天使を呪い殺して、それで親玉の星天使が怒ってる、ってことか」
「復讐だよ、あたしたちいじめたもの。あの子たち、死んで当然だよ」
そうやって、弱い者たちがさらに弱い者をたたく。
チューヤはトレインに乗って走って行きたい気がした。どこまでも……。
そのとき、いよいよ絶叫が近づいてきて、さすがのチューヤも顧みてゾッとした。
黒い壁のようなものが、南のほうから迫ってきている──。
「なんだ、あれ……」
「追いつかれると、死ぬよ。早く逃げたほうがいいよ」
ぴょんぴょんと駆け出すウサコの首根っこをつかまえ、持ち上げるマフユ。
じたばたする少女に首輪をつけ、リールを手に取る。
「死にたくなければ、死ななくて済む方向へ逃げな」
「見ればわかるでしょ。あの壁に追いつかれたら死ぬんだよー」
さすがに逃げないとまずいことは、全員が了解した。
これ以上、北へは進めない。西へ向かって走る。
「お、東駅だ」
チューヤは右手方向にモノレールの駅を眺めながら、その横を名残惜しそうに駆け抜けた。
本日モノレールは稼働していないが、幽霊モノレールが稼働している可能性はつねにある。
なにしろここは境界だ。
東園から西園へ、どんな幽霊を運ぶことに意味があるのか、それはわからないが。
「なんであんな壁と追いかけっこしなきゃならねーんだよ、くそ」
顧みれば、空間を圧するように広がる黒い壁が、じりじりと包囲を狭めている。
考えるまでもなく、触れたらヤバい気配がプンプンだ。
「ウサコちゃん、ところで、さっき飛んでいった鳥、あれって」
「友達のマナちゃんだよ。あの子、鳥人なんだよ。とっても足が速いんだ。すごいよ」
モノレールと並行する、西園へ向かう道をまっすぐに駆ける。
いそっぷばし、と書かれた橋に到達する。
ふりかえると、置いてきた黒い壁はまだ見えないが、遠くから響く足音が着実な接近を予感させる。
「ここから飛び降りたらいいんじゃないか?」
橋の下を覗きながら言うマフユ。
ふだんならありえない行為だが、緊急事態から逃れる可能性としては探求していい道かもしれない。
半ば飛び降りかけているマフユの肩を押さえ、チューヤは拾った石ころを投げてみた。
──バシュッ!
それが地面に到着するまえに、次元の狭間で閃光が走ったかと思うと、わずかな煙を残して石ころは消滅した。
ごくり、と息を呑むチューヤたち。
黙って一歩退き、両手で「どうぞ」と勧めるチューヤをしばき上げるマフユ。
「てめえ、あたしを殺す気か!」
「あんた、俺が止めなかったらいまごろ煙だったことを、まずは感謝したら!?」
ともかく、この道から外れるのはかなりマズそうだった。
早くも背後には黒い壁が迫りつつある。
その壁に追いつかれた場合に、橋から飛び降りた場合と比較してマシな結果になるだろうと予測するのは、なかなかむずかしい。
ともかく逃げるしかなさそうだ。
するとウサコが、心強い(?)ことを言った。
「あたしとマナちゃんは、逃げ切ったことあるから、だいじょぶだよ。3番くらいまでにはいれれば、もとの世界に帰れるよ」
だれと比べて3番なのか?
前提が不明だが、結果的に上位を取れれば勝ちらしい。
言い換えれば、4番以下になれば……?
顔を見合わせるチューヤたち。
……もちろん、もう生きてはいないのだろう。
どうやらこれは「そういうゲーム」のようだ。
「早く言えよ、このバカタレ。走るぞ、おい」
「なんてこったパンナコッタ」
死の追いかけっこが、はじまった──瞬間、それは終わりを告げた。
橋の向こう側に屹立する、巨大な天使の影。
別の道を模索すべきか、とふりかえったさき、待ち受ける神将。
はさまれた──。




