63 : Day -23 : Kōenji
サアヤをおんぶして店にはいったチューヤは、ほっとして心が温まるのを感じた。
リョージとヒナノが、まだ残ってくれている。
時刻は午前2時をまわった。
ケートもマフユも、だいぶ薄情な印象だけを残して去った。
俺の本当の友は、ここにいるナイスゲイいやナイスガイなのではないか、と強く心に訴えるものを感じたことを否定できない。
最後に視線を動かしたさき、あるはずのものが──ない。
チューヤは首をかしげて、
「……あれ? 先生は?」
この場合の先生は「大学教授」という意味だろう。
そんなことは百も承知の弁護士「先生」榎戸は、申し訳なさそうに言った。
「すまないね、きみたちには感謝している。彼……彼女はゲットーへ帰ったよ」
「は?」
さすがのチューヤも、ヤバい単語を聞いた、という実感はある。
「自分の足で歩いて行った。きみたちのおかげだと、感謝はしていた。ほんとうだ」
フケイ、ヘルマプロディトス、アラハバキから、それぞれ右手と両足をとりもどした。
残り1本、キュベレーのもつ左手の件を相談しなければならないと思っていたが。
「どういうことなんですか、榎戸さん」
「申し訳ない。上からの指示でね、時間切れだ」
「時間切れ? どういうことですか」
「ユダヤにはユダヤのルールがある。きみたちには関係ないよ」
醒めた物言いの榎戸が、めずらしく酒を飲んでいた。
若干むせているところをみると、そうとう強そうな酒だ。
「ゲットーって、なんですか? もしかして宝町の」
東京駅の東側には、危険なスポットが無数にある。
榎戸はわずかに顔を上げ、
「そうか、アムステルダムのことも知っているか。いや、そことは関係ないがね。おと……妹は大久保に住んでいるんだ。月塔というね」
「ああ、マンションの名前でしたか。……大久保」
同じ中央線沿線で、新宿の手前だ。各停しか止まらないが、高円寺や阿佐ヶ谷からならちょうどいい。
路線図と同時に、脳内に悪魔全書を呼び出してしまうのは、わるい癖といっていいかもしれない。
オオクボ、デカイクボ、ディクボ、ディブク。
たぶんどこぞの愚かなゲームプログラマーが、ふざけて配置したにちがいない。
「もういいんだ、あとは当人が自力で解決するさ。きみは彼女を送ってやってくれ」
ちらりと顧みる。サアヤは机に突っ伏して寝ている。
なるほど、その選択肢もあるだろう。毎度、サアヤにはやっかいをかけている。
リョージは、最後に洗ったグラスを棚にもどすと、マダムに頭を下げてカウンターを出てきて言った。
「オレ、これからランキング戦なんだよな。丹下さんも待っているし、行かないと。チューヤもいっしょに来ないか?」
午前3時からファイト開始、だという。
そんな予定がはいっているのに自分を待っていてくれた、この男に付き合いたい、という激しい衝動がチューヤを満たした。
真夜中もいいところだが、どうやら裏格闘技界では、時間が深くなるほど高ランクの試合が組まれているらしい。
ふと、ヒナノに視線を移した。
彼女は読んでいた本を閉じると、言った。
「わたくしは帰宅します。そのまえに人形町で調べることがあるのですが、きょうでなくてもかまいませんし、これから行くという選択肢もあるでしょう」
ヒナノらしいといえばらしいが、これは当然、誘いだ。
たぶん、ほんとうはリョージに付き合ってもらいたいのだろうが、最近の鍋部部員たちはことさらいそがしい。
チューヤはしばらく考えてから、言った。
「わるい、リョージ。今回はパスさせてくれ。お嬢、人形町の話は必ず、明日までに。帰るついでにサアヤ、うちに送ってやってくれないかな。……榎戸さん、その月塔ってマンションの場所、教えてもらっていいですか?」
全員が鋭く、あるいはゆっくりと、チューヤに視線をむけた。
彼は選んだのだ。彼のシナリオを。
「くりかえして言っておきますが、わたしはけっして戦いませんよ」
喜んでいるのか、悲しんでいるのか、どうでもいいのか、榎戸の表情からはあまり多くのことは読み取れない。
それでもタクシーにチューヤを乗せて、大久保までの5キロ程度の道程、それなりに饒舌だった。
──ディブクという悪霊のことは、もちろん榎戸も知っていた。
ユダヤ伝説の邪悪な精霊で、肉体と魂に取り憑いて支配し、悩ませ苦しめるという。
彼らは過去に罪を犯したために新しい身体を与えられず、それで生きている人間に無理に取り憑く魂であるともいわれる。
結末は悪魔払いのやり方しだいで、地獄に投げ込まれるのか、この世に再び舞いもどってくるかのどちらかとなる。
「でもレベル4の底辺悪霊ですよね? まあ最強に強化されれば、それなりに強いことはミルメコレオやフケイで理解してますけど」
「呪いの箱の恐ろしさは、強さとは関係ないよ。まあどういう意味かは、すぐにわかると思うが」
割増料金のタクシーは閑散とした都道を東へ、大久保までの道のりは短い。
チューヤは電車に乗れないことを残念に思いながら、
「それで、ユダヤのルールって?」
単刀直入に問うた。
ユダヤの歴史が圧倒的に長く、すさまじいことは承知している。
圧倒的少数派でありながら、神学機構の中心に打ち込まれた楔の意味を、かねがね知っておく必要があると思っていた。
ユダヤ人がどこから来たのか、という問いに答えはない。
聖書以外で、ユダヤ人のことを最初に記述しているのは、紀元前1220年ごろのエジプトの碑文だ。
ともかく、どこかでなにかの着想を得ただれかが、権力者に成り上がって、あるいはそれを誑して、ユダヤ教の原型を形作っていった時期を「はじまり」と呼ぶ方法は、正しいだろう。
「もとはシュメール人だったかもしれないし、エジプト人のなかから出てきたのかもしれない。正直、調べようがないがね」
「メタトロンの記憶によれば?」
チューヤの問いに、榎戸は意外なほど磊落に笑った。
彼のレベルは、たしかにもうそういう段階にきている。
「それはかなりのメタ発言だね、メタトロンだけに」
「これから救いに行く大学教授と、その話をすることになるかもしれないので」
「サンダルフォンか。まあ彼は、そういう霊的な話は好まないがね。……彼女は、史料と証拠のうえに依って立つ、科学的な話が好みなのだよ」
チューヤも、そういう確固たる脈絡は重視している。
8万年まえから、人類がどうやって神と悪魔をつくってきたか、すでに想像する契機を得ている。
──ある程度の考古的事実と、記録と、民間伝承と、解釈を織り交ぜてつくりあげた物語に、自分たちの来歴のアイデンティティを求めた。
ほとんどの国、民族が、似たようなことをやっているので、そこまでは理解しやすい。
「ユダヤ人の話は、よく月刊『ヌー』に出てますから」
「ははは、あの雑誌は人気だね。……ユダヤの始祖といえば、カナン人とアラム人であろうと、わたしは考える。それからアモリ人の一部、西セム語族系かな。その流れには説得力があると言わざるを得ない。メソポタミアとカナンの地に流入した、これらの民族の動きは、言語やDNAからも類推できる……と、妹は言っていたよ」
気候の変動に合わせ、周辺の高地から流れ込んできた遊牧民などが、カナンの文化を取り入れ、農業し、放牧した。
聖書にも、これらの生活文化が色濃く記載されている。
彼らのはじまりは、メソポタミアの辺遠で暮らす一部族だった。
「世界史の授業って、だいたいそのへんからはじまりますよね。古代メソポタミアの動きは、長江や黄河文明の辺遠だった秦が力をつけていった流れに似ている、って担任が言ってました」
ふだんは学校の勉強など右から左だが、人類史はこのさいとても重要だ。
そうして打ち立てられた国家は、国家としてはすぐに滅びたが、その思想は生き残った。
「残念ながら周囲の国が強すぎて、イスラエル国家は、さしたる栄華を築くでもなく、すぐに消えたようだね。問題は、生き残った人間たちの信じる、民族宗教のほうか」
チューヤは強くうなずいた。
──ユダヤ教。
アブラハム、イサク、ヤコブの子孫は、エジプトの支配を受け、それから逃れるべく戦った。有名な出エジプトは、エジプトではラムセス2世の時代に当たる。
出エジプト後、紀元前13世紀から11世紀の終わりにかけて、イスラエルはカナンに12の部族を組織したが、その征服の過程でもっとも手ごわい敵となったのが、ペリシテ人である。
「この名前に聞き覚えはあるだろう。パレスチナの語源だ」
チューヤは意識の方向を修正、補強した。
これらの「予習」には、ひどく重要なパーツが隠されている気がする。
──12の部族は基本的に独立して活動していたが、時にカリスマ的な指導者「士師」が現れて、勇気ある行動により華やかな物語を彩る。
エフド、デボラ、ギデオン、サムソンなどが代表だ。
イスラエル王国の衰退は、「メシヤ石碑」という長い碑文に記されており、ルーブル美術館が所蔵している。
イスラエル王国ではイゼベルが、ユダ王国ではアタルヤが、強烈な個性で異教を指導した。彼女たちはバール神などを崇拝し、憎しみを集め、結局どちらも殺された。
「……バール神」
そのときクルマが減速し、ぴたりと止まった。
予習としてじゅうぶんとはいえないが、時間がありあまっているわけでもない。
目のまえに地上13階の建造物、マンション「月塔」。
ここが新たな戦場だ。




