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量子学の恋人  作者: 毬藻 闇雪


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第2話 中庭

♪(昭和のジングル)


「こんばんは。『黄昏ミッドナイト』のお時間です。


お相手は、『昭和の待ち合わせは駅前の伝言板』こと、DJ蒼坂です。


昔はね、携帯なんてありませんでした。

駅の黒板みたいな伝言板に、『先に喫茶店にいます』なんてチョークで書いて待ち合わせをしたもんです。

シティーハンターでは、依頼者がXYZなんて暗号を書いたりね。


今みたいに『どこ?』『あと何分?』なんて便利な時代じゃありません。


でもね、不思議と、あの頃のほうが人を待つ時間は楽しかった気がするんです。


それでは最初の曲は、ラジオネーム『冷やし中華はじめましたが終わると寂しい』さんからのリクエスト。

サザンオールスターズ。『恋人も濡れる街角』どうぞ。」


♪サザンオールスターズ(恋人も濡れる街角)





土曜日の午後。


県立図書館の中庭は、梅雨の合間の柔らかな陽射しに包まれていた。木々の葉が風に揺れ、噴水の音が静かに響いている。


彼は返却カウンターを済ませ、出口へ向かって歩いていた。ふと、中庭が目に入る。

長い木製のベンチに、一人の女性が座っていた。先週、本棚の前で同じ本に手を伸ばした女性だった。なぜ覚えていたのだろうか?

少し考えて、可笑しくなり口の端が上がる。


膝の上には一冊の本。表紙までは見えない。ページをめくる手だけが、ゆっくりと動いていた。外なのに、まるでそこだけ時間が止まっているようだった。


彼は立ち止まらず、視線だけを向けたが、そのまま歩き過ぎる。


そういえばあの本。読んでいるんだろうか?量子力学。自分には難しそうだと思って彼女に譲った本。女性の横顔は真剣だった。

少し眉を寄せ、ときどき空を見上げては、また文字へ視線を落とす。


不思議な人だ。そう思った。いや、先週もそう思っていた。図書館が似合う人。それが彼女の印象だった。


そういえば、あのくらいの年齢なら、子供がいてもおかしくない。大学生かもしれないし、もう社会人かもしれない。今日は子供の勉強に付き合って、量子力学の本でも借りたのだろうか。


そんなことを考える。もちろん確かめるつもりはない。知らないままでいい。知らないからこそ、勝手な想像ができる。

彼は小さく息を吐き、駐車場へ向かった。エンジンをかける。フロントガラスの向こうに、中庭の木々が揺れていた。彼女の姿は、もう見えなかった。


その頃、ベンチの女性は本を閉じていた。

『量子力学と世界の見方』栞を挟み、膝の上へ置く。内容は難しかった。読んでも、半分も理解できない。それでも、不思議とページをめくりたくなる。世界は、見えているものだけでは決まらない。そんな一文に、小さく指を止めた。


もしそうなら。見えている今だけが、自分の人生ではないのだろうか。ふと顔を上げる。

ガラス越しに、駐車場へ歩いていく一人の男性の背中が見えた。本を譲ってくれた人だった。名前も知らない。声も、ほんの一言しか聞いていない。それなのに、どこか安心する背中だった。


「司書さん……じゃないよね」

小さく呟いて、自分で少し笑う。その声は風に紛れ、誰にも届かなかった。


二人はまだ知らない。互いが互いを、ほんの少しだけ覚えていることを。人生は劇的には変わらない。けれど、名前も知らない誰かを思い出す回数が増えたとき、静かだった毎日は、もう少しだけ違う景色を見せ始めるのかもしれない。




♪(エンディング)


「今日も最後まで、ありがとうございました。


人生って、不思議ですよね。

毎日すれ違う人の顔なんて、覚えていないはずなのに。


たった一度目が合っただけの人を、何年たっても思い出せたりする。

言葉を交わした長さじゃないんですね。

心が動いたかどうか。それだけなのかもしれません。


それでは最後の曲です。

BEGINで『恋しくて』。


お相手は、昭和の伝言板見守り隊こと、DJ蒼坂でした。


それではまた来週、この時間に。」

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