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量子学の恋人  作者: 毬藻 闇雪


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第1話 観測されない人生

♪(昭和のジングル)


「こんばんは。今日も始まりました、『黄昏ミッドナイト』。お相手は、昭和の頑固親父こと、DJ.蒼坂(あおさか)です。


最近は『半ドン』って言っても、『半分うどん?』って聞き返されるそうですよ。


さて、突然ですが、皆さん。

誰にも見られていないところで頑張ったことって、ありますか?


仕事でも、家事でも、子育てでも。

褒められなくても、拍手なんてなくても。

それでも毎日、ちゃんと生きている人がいます。


昔はね、『縁の下の力持ち』なんて言葉がありました。今夜は、そんな人たちのことを少しだけ考えながら、お付き合いください。では最初の曲、ラジオネーム『今日も、京都でご飯が旨い』さんからのリクエスト。

チェッカーズで夜明けのブレス…どうぞ。


♪チェッカーズ(夜明けのブレス)




県立図書館は静かだった。


空調の音と、ページをめくる音だけが、広い館内をゆっくりと流れている。


彼女は、この場所が好きだった。誰も他人に興味を持たない。それが心地よかった。


仕事を終えると、コンビニで半額の弁当を買って食べ、風呂に入る。何の変化もない、貼り付けたような同じ毎日。

そんな代わり映えのない、数え切れない日々の中で、土曜日の休日に図書館で過ごすことが、最近の特別な時間だった。



シャワーを浴びたあとは、脱衣所の鏡の前を素通りする。見るつもりはない。

もう何年も、真正面から自分の裸を見ていなかった。


三十代の頃は、友人と笑いながら「胸が下がった」「お尻に肉が付いた」と騒いでいた。あの頃は、まだ誰かに見られる未来を信じていたから。


しかし。鏡の中の身体は、静かに年齢を重ねていた。胸は柔らかく重力へ従い、腕に付いた脂肪は、薄い皮膚が力なく支えている。……みっともない。自分でも分かっている。しかしこの先、もう誰にも見せることもない裸だ。鍛えたり、脂肪を落としたり、そんな努力ももう必要ない。


男は若い女を求めるし、若い女も若い男を求める。若い女はちょっと年上の男も許容する。年寄りの男も若い女を求める。

そしたら年を取った女は?誰が求めるというのだろう?女は年を取れば終わり…誰にも求められず、ただ老いてゆくだけ。


そんな歪な考えが、私の魂を支配する。誰にも求められないおばさんは、社会の中で不要な存在になってしまったのか。


本当にどうでもよくなっていた。だらしない身体、艶を失った肌…


そう思う相手も、自分しかいない。誰も私など見てもいない。


ドライヤーだけ済ませると、鏡から目を逸らして部屋へ戻った。


テレビはつけない。静かな部屋で、本を読む。誰とも話さない休日は、珍しくもなかった。


ふと考える。最後に、自分の話をして笑ったのはいつだっただろう。会社では話す。仕事の話、天気の話。物価が高いという話。それだけだ。


「昨日ね」そう言って、自分のことを話す相手は、もう何十年もいない気がした。



翌週の土曜日。

彼女はいつものように県立図書館へ向かった。


同じ頃、一人の男もまた図書館へ来ていた。若い頃は、本などほとんど読まなかった。休日は疲れて眠るだけだった。


仕事を覚え、生活を維持し、気づけば五十代になっていた。結婚はしなかった。できなかったのかもしれない。

子供は好きだった。


スーパーで親に抱かれた赤ん坊を見るたび、視線を逸らした。そういうときは決まって、自分の子供が欲しかったのだと実感する。家庭というものに憧れていたのだと。


だがその日の生活で精一杯だった。「いつか、そのうち」その言葉だけで二十年が過ぎた。


最近、会社で同年代の同僚が孫の写真を見せてくる。嬉しそうに笑う顔を見ながら、「よかったな」と言う。心からそう思う。


しかし同時に、自分の中にぽっかりと穴が開いていることに気付く。

朝、目覚めても身体は何も反応しない。年齢のせいだろうか。いや、それだけではない。


この十年は、誰かを好きになる前に、自分から降りた。どうせ相手にされない。俺なんか。その考えが長く積もり、恋愛という感情そのものを棚の奥へしまってしまった。


図書館の理工学コーナーで足を止める。難しそうな本が並ぶ棚。一冊だけ、背表紙に目が留まった。


『量子論入門』


なぜその本を手に取ろうと思ったのか、自分でも分からなかった。右手を伸ばす。その瞬間、もう一つの手が同じ本へ伸びてきた。


白く細い指先。

「あ……」

思わず手を引く。隣に立っていた女性も、小さく笑って手を引いた。

「どうぞ」

「いえ、あなたが」

たったそれだけの会話。十秒にも満たない出来事だった。


けれど二人は知らない。人生というものは、大きな決断ではなく、こんな小さな偶然から静かに向きを変えることがある。


棚から引き出された一冊の量子力学の本は、まるで観測されるのを待つ粒子のように、二人の間で静かに揺れていた。




♪(エンディング)


「今日も最後までありがとうございました。

人生って、不思議ですよね。


誰にも見られていない日は、何もなかった一日なんでしょうか。


私は、そうは思いません。


それでは最後の曲です。中島みゆき『時代』


お相手は、『縁の下の力持ち見習い』こと、DJ蒼坂でした。

それでは、また来週、この時間に……」

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