EP 6
徹夜は減価償却を早めますわ!最重要無形資産の徹底ケアと溺愛の始まり
アークライト公爵邸の最上階、東向きの大きな窓から朝の陽光が差し込む一室。
かつて王族をもてなすために使われていた特等室は、昨日から【アークライト・ヴァレンタイン魔導研究所】のプライベート開発室へと姿を変えていた。
だが、翌朝早く――視察に訪れた私とミアを出迎えたのは、華々しい研究の成果ではなく、凄惨な事件現場のような光景だった。
「ノ、ノア様……!?」
部屋の扉を開けた瞬間、ミアが悲鳴を上げてトレイを取り落としそうになった。
床一面に散乱した、魔導インクで埋め尽くされた数百枚の羊皮紙。
その中央、巨大な作業机に突っ伏すようにして、黒髪の青年がピクリとも動かずに倒れ伏していたのだ。
「ひゃあああっ! だ、誰かぁっ! ノア様が息絶えてますぅぅっ! 王太子殿下の差し向けた暗殺者の仕業ですわぁぁっ!」
「落ち着きなさいミア、息はありますわ!」
私はドレスの裾をたくし上げて駆け寄り、青年の青白い首筋に指先を当てた。
トク、トク……と、弱々しいながらも確かな脈拍。
すると、私の気配に気づいたのか、ノアが重たい瞼をわずかに持ち上げた。
そのアメジストの瞳は完全に焦点が合っておらず、目の下には昨日よりも濃い漆黒の隈が張り付いている。
「……あ……セシリア、様……? すみません……あと少しで……新型ランタンの……熱分散回路の数式が……完成……」
「ノア様!?」
呟いた瞬間、ノアの首がガクンと折れ、そのまま私の胸元へと倒れ込んできた。
ずっしりとした男性の重みと、かすかなインクと鉄の匂い。
私は彼を支えながら、作業机の上の惨状を見回した。
手付かずのまま冷え切った昨晩のパン。
空になった覚醒ポーションの小瓶が五本。
そして、徹夜で書き殴られたであろう、狂気的な密度の計算式と設計図の山。
「……ミア、ノア様を抱えるのを手伝いなさい。今すぐベッドへ運びますわよ!」
「は、はいぃっ!」
二人掛かりでノアを天蓋付きのベッドへ運び、羽毛布団を掛ける。
私は胸元から銀縁眼鏡を取り出すと、キリッと鼻梁へ押し上げた。
眉間に深い青筋を浮かべ、冷徹なハゲタカの目がギラリと覚醒する。
「ノア・ヴァレンタイン! 意識があるなら、私の言葉をお聞きなさい!」
「……っ、はい……セシリア様……」
ベッドの中で身じろぎし、罪悪感に瞳を揺らすノア。
私は仁王立ちになり、容赦ない怒声を叩きつけた。
「貴方、昨晩一睡もしていませんわね!? 食事も摂らず、毒にも等しい覚醒ポーションを煽って、ぶっ続けで二十時間以上机にかじりついていたでしょう!」
「……だって……俺なんかに、月給三十万リンもの大金を前払いしてくれて……こんな素晴らしい部屋まで与えてくださったのに……早く目に見える成果を出さなければ、あなたに申し訳が立ちません……。俺の体なんて、いくら削っても惜しくない……」
消え入りそうな声で、自嘲気味に呟くノア。
横で聞いていたミアが、思わずほろりと涙を浮かべて呟いた。
「ノア様、なんて真面目で健気なんですかぁ……! お嬢様、雇い主からしたら、寝る間も惜しんでタダ働き同然で身を粉にしてくれるなんて、最高に都合が良い従業員なんじゃないですか?」
「愚か者っ!!」
私の雷鳴のような一喝が、天蓋をビリビリと震わせた。
「ミア、ブラック企業の搾取経営者みたいな思考回路に毒されてはいけませんわ! それは経営でも投資でもない、ただの【現場の使い潰し】という名の自殺行為ですのよっ!」
「ひゃぅっ!? じ、自殺行為ですかぁ!?」
怯えるミアに、私はビシッと指を突きつけた。
「いいこと、ミア? 世の中の愚かな経営者は、機械や建物を大切にメンテナンスするくせに、働いている人間を『いくらでも替えが利くタダの消耗品』だと勘違いしていますわ。ですが、会計の世界において、人間とは単なるコスト(費用)ではなく――富を生み出す源泉である【人的資本】そのものなのです!」
「じ、じんてきしほん……?」
「そうよ! 工場にある魔導プレス機のような【有形固定資産】なら、使い潰して壊れても、お金を払えば同じ型番の新品を買い直せますわ。しかし――ノア様が頭の中に持っている規格外の天才頭脳は、世界中を探しても二つと手に入らない、唯一無二の【最重要無形固定資産】ですのよっ!」
私はベッドのノアを鋭く見下ろした。
「ノア様、数字で現実を教えて差し上げますわ。人間が徹夜をして睡眠不足に陥った時、脳のパフォーマンスは【泥酔状態】と同等まで低下するという実験データがありますのよ!」
「で、泥酔状態……ですか……?」
「ええ! そんな状態で複雑な魔導回路の計算をしてみなさい! ミスを連発し、回路はショートし、翌日になって『全部最初からやり直し』という莫大な手戻りコストが発生いたします! 作業スピードが半分に落ちるということは、月給三十万リン支払っていても、実質的には十五万リン分の価値しか生産できていない――つまり、我が社にとって【毎月十五万リンの大赤字垂れ流し】ですわ!」
「あ……」
ノアがハッと息を呑む。
私はさらに、手帳に赤ペンを走らせながら畳み掛けた。
「それだけではありませんわ! 不眠不休と覚醒ポーションの乱用で免疫力が低下し、重病で倒れたり、最悪の場合……過労死でもされたらどうなりますこと? ノア様が将来生み出すはずだった数百億リンの特許キャッシュフローが一瞬で電子の藻屑と消え去り、我がアークライト公爵家は【数百億リンの特別損失(全額減損処理)】を計上することになりますのよっっ!!」
「す、数百億円の特別損失ぃぃぃっ!?」
ミアが悲鳴を上げて頭を抱えた。
「わかりましたかしらノア様? 貴方が勝手に体を壊して倒れることは、美談でも忠誠でもなく、我が公爵家に対する【背任行為(重大な契約違反)】ですわ! 徹夜は我が社の無形資産の価値を暴落させ、減価償却を異常なスピードで早めるだけの愚行だと知りなさい!」
「俺の……過労が……セシリア様に、何百億もの損害を……?」
ノアの顔から、みるみる血の気が引いていく。
彼はガタガタと震えながら、掛け布団を握りしめた。
「す、すみません……俺は、あなたに利益をもたらすどころか……とんでもない損失リスクを押し付けていたのか……」
「理解できたなら結構ですわ! ミア、直ちに【ノア様・資産価値防衛オペレーション】を発動いたします!」
「は、はいっ! 何をすればよろしいですかっ!」
私は執務手帳をバチンと閉じ、淀みなく指示を飛ばした。
「第一に、食事改革ですわ! 厨房へ行き、最高級牛の赤身ステーキと、新鮮な温野菜サラダ、そしてじっくり煮込んだ滋養強壮の濃厚コンソメスープを大至急運ばせなさい! 糖質と脂質だけの安パンは今すぐゴミ箱へ廃棄! 脳の神経伝達物質を合成するための高タンパク・ビタミン・ミネラルを徹底補給させます!」
「かしこまりましたっ!」
「第二に、睡眠環境の全面刷新ですわ! このベッドのマットを、王室御用達の『魔導低反発スプリングマット』に交換し、掛け布団は北部特産の最高級ホワイトグースの羽毛布団を手配なさい! 導入費用として大銀貨五枚(五万リン)かかりますが、睡眠の質が向上して翌日の作業効率が二十%向上すれば、わずか半月で投資元本を回収できますわ!」
「五万円のベッド! でも費用対効果(ROI)は抜群ですねっ!」
「そして第三! 本日より、ノア様には【一日最低八時間の絶対睡眠】を義務付けます! 夜十時を過ぎた瞬間に研究室の主電源魔導石は自動遮断! 破った場合はペナルティとして、翌日の研究室立ち入りを二十四時間禁止いたしますわ!」
息もつかせぬ命令の嵐に、ノアは呆気にとられたように私を見つめていた。
そこへ、厨房から出来立ての料理が銀のトレイに乗せられて運ばれてくる。
湯気を立てる黄金色のコンソメスープの香りが、部屋いっぱいに広がった。
「さあ、ノア様。まずはこのスープをお飲みなさい」
「あ……自分ですすります……」
「ダメですわ。手先が震えてスプーンを取り落としそうではありませんか。ほら、口を開けなさいな」
私はベッドの脇に腰掛け、銀のスプーンでスープを掬うと、フーフーと息を吹きかけて冷ました。
そして、彼の唇の前へと差し出す。
「あーん、ですわ」
「…………っっ!?」
ボッッッ! と音がしそうな勢いで、ノアの白い顔が耳の先まで真っ赤に染まった。
あまりの熱量に、彼のアメジストの瞳がうるうると揺れ動いている。
「セ、セシリア様……!? 公爵令嬢であるあなたが、俺なんかに、あ、あーん……だなんて……!?」
「何を恥ずかしがっているのです? 我が社の最重要無形資産に燃料を補給するのは、筆頭株主として当然の業務ですわ! いいから早くお飲みなさい!」
「う……あ……」
観念したように、ノアがおずおずと口を開く。
スプーンを差し入れると、濃厚なコンソメの旨味が彼の口内に広がった。
ゴクリ、と喉が鳴る。
「……あ、温かい……すごく……美味しいです……」
「当たり前ですわ、公爵家の首席シェフが腕を振るったのですからね。ほら、もう一口」
スプーンを運ぶたび、ノアの瞳にじわりと大粒の涙が盛り上がっていった。
そして――最後の一滴を飲み干した時、ノアは布団から伸ばした両手で、私の空いた右手をそっと包み込んだのだ。
「……え?」
見上げると、ノアのアメジストの瞳から、一筋の涙が頬を伝ってこぼれ落ちていた。
その表情には、畏怖と、狂おしいほどの情熱が混ざり合っている。
「ノア様……? 熱でも上がりましたかしら……?」
「……生まれて初めてです」
低く、掠れた美声が、私の耳朶を震わせた。
「王宮でも、実家の男爵家でも……俺は常に『金食い虫』『気味の悪い魔導オタク』と罵られ、成果を出せなければ食事すら与えられなかった……。誰も俺自身の体を心配なんてしてくれなかった。それなのに……」
「ノア様……」
「あなたは、俺の体と心を誰よりも大切にしてくださる……。手ずから温かい食事を与え、最高の手袋で包むように守ってくださる……。セシリア様、あなたは……俺を救うために舞い降りてくれた、本物の女神なのですか……」
「……は? め、女神……?」
ちょっと待ちなさい。
今の説教のどこに女神要素がありましたの!?
私はただ、「投資先が過労死したら大損こくから、設備投資として飯を食わせて寝かせただけ」の極悪ファンドマネージャーですわよ!?
「セシリア様……誓います。俺の命も、この頭脳も、心臓の最後の一刻みに至るまで……すべてあなたのものです。あなたが命じるなら、世界中を照らす光だって、国家を揺るがす新兵器だって作ってみせる。どうか一生……俺をあなたの所有物として、お側に置いてください……」
ノアは私の手の甲に、祈りを捧げる巡礼者のように額を押し当てた。
伝わってくる吐息の熱さに、今度は私の方がカッと顔を赤く染めた。
(重い! 重い重い重いわノア様ーーーっっ!! 打算百パーセントの減価償却対策を、生涯の愛の誓いみたいに受け取るのはやめてくださるーーーっっ!?)
「きゃあぁぁぁっ! お嬢様ぁ! ノア様が限界突破の蕩け顔でプロポーズしてますよぅ! ご馳走様ですぅぅっ!」
「だ、黙りなさいミア! ノア様、とにかく今は寝なさい! 寝ることも業務の内ですわっ!」
私は赤面を誤魔化すようにノアの肩をベッドへ押し戻し、羽毛布団を首元まできっちり引き上げた。
安心したように深く息を吐き、ノアは数秒と経たずに穏やかな寝息を立て始めた。
その安らかな寝顔は、まるで泥を洗い流した彫像のように恐ろしく整っていた。
(ふぅ……。これで最重要資産の減損リスクは防げましたわね。睡眠と栄養という最もROIの高い自己投資を怠っては、どんな大事業も成功いたしませんもの)
額の汗を拭い、私はミアを促して静かに部屋を出た。
廊下に出て、ようやく胸を撫で下ろした――その時だった。
「……うぅ……どうしよう……。今月もまた……こんなに……」
ふと隣を見ると、ミアが青ざめた顔で立ち止まり、エプロンのポケットから取り出した『黒く光る小さな石板』を見つめて震えていたのだ。
その瞳には、今にも零れ落ちそうな大粒の涙がたまっている。
「……ミア? どうかなさいましたの? その手に持っている、怪しげな魔導石板は何ですの……?」
「ひゃっ!? お、お嬢様……! な、なんでもありませんっ! これはその……!」
慌てて隠そうとするミアの手首を、私はスッと掴んだ。
石板の表面に刻まれていたのは、王都の悪徳金融ギルドの刻印と、恐るべき数字の羅列――。
『魔導ツケ払い札(定額返済契約)利用明細:残債総額・金貨三枚(三十万リン)』
『今月のお支払い:銀貨三枚(三千リン)』
(……これは……ッ!?)
私の公認会計士としての嗅覚が、猛烈な危険警報を鳴り響かせた。
無駄な固定費を切り捨て、天才魔導師を救った悪役令嬢の前に――庶民を地獄の底へと引きずり落とす【現代社会の最凶の罠(リボ払い)】が姿を現した瞬間だった――!
【巻末付録】セシリアお嬢様の3行マネー講座
健康と睡眠こそが「最大の人的資本」ですわ! 徹夜や暴飲暴食で体を壊すのは、将来稼げるはずの数千万円を自らドブに捨てる減損事故と同じですことよ!
自己投資のROI(投資対効果)を最大化しなさい! 良いマットレスやバランスの良い食事への支出は「贅沢」ではなく、翌日の生産性を何倍にも跳ね上げる賢明な投資ですわ!
ブラックな働き方は経営破綻への近道! 無理な長時間労働はミスと手戻りを生み、組織と個人の価値を急激に減価償却させる最大の敵だと肝に銘じなさい!
読んでいただきありがとうございます。
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