EP 4
お父様、そこに座りなさい!貸借対照表(BS)で見える化した公爵家の火の車
東の空が白み始めた早朝、私たちがアークライト公爵邸へ帰り着いた時――。
豪奢な大広間では、恰幅の良い壮年貴族が、湯気を立てる最高級紅茶のカップを優雅に傾けていた。
立派な口髭を蓄え、絵に描いたような育ちの良さを漂わせる私の実父、アラン・フォン・アークライト公爵である。
「おお、セシリア! 無事に戻ったかい。夜会はどうだったね? エドワード殿下と仲睦まじく踊れたかな?」
ふふふ、と人好きのする笑みを浮かべるアラン父様。
その隣には、財務大臣ガストン卿の商会から届いたばかりの、金箔で縁取られた豪華な契約羊皮紙が置かれていた。
「見てごらん、セシリア! ガストン卿が我が家にだけ特別に案内してくれた『黄金竜ファンド』という新航路の投資信託でね! なんと元本保証で毎月五%の配当が出るというのだよ! 手持ちが足りなかったから、屋敷の権利を担保に金貨五千枚(五億リン)の追加出資契約書にサインしておいたよ。これで我が家もますます安泰だねえ」
ピキリ。
私の脳内で、前世から受け継がれた公認会計士の理性が音を立てて砕け散った。
(……元本保証で月利五%……? 年利換算六十%超のポンジ・スキーム(自転車操業詐欺)の教科書みたいなゴミ案件に、屋敷を担保に入れて即日サインしたですって……!?)
背後でトランクを抱えるミアがヒッと息を呑み、ノアが静かに紫煙のような冷たい眼差しをアラン公爵へ向けた。
私はすっと笑みを消し、静かに口を開いた。
「お父様」
「ん? なんだい、セシリア?」
「――そこに正座なさい」
「……え?」
「いいから、今すぐそのフカフカのソファーから降りて、床に膝をついて正座なさいと言いましたのよっ!!」
私の凄まじい怒号が大広間のシャンデリアをビリビリと震わせた。
気圧された父様は、ティーカップを取り落としそうになりながら、絨毯の上にペタンとお行儀よく正座した。
「せ、セシリア……? な、なぜ怒っているんだい……? 私は公爵家の当主で、君の父親なのだが……」
「黙りなさい! ノア様、あれを広げてくださる?」
「承知しました、セシリア様」
ノアが作業着の袖をまくり、馬車から運び込んできた特大の白紙スクロールを壁一面にバサリと広げた。
私は胸元から銀縁眼鏡を取り出してクイと鼻梁へ押し上げると、赤と黒の魔導インクペンを両手に構えた。
ハゲタカの目がギラリと光る。
「お父様。貴方が今まで『名門の誇り』だの『雅』だのとほざいて直視してこなかった、我がアークライト公爵家の【真実の姿】を教えて差し上げますわ!」
「し、真実の姿……?」
私は特大スクロールの真ん中に、巨大な縦線と横線を一本ずつ引き、大きな【Tの字】を書き殴った。
「ミア、これは何ですの?」
「は、はいっ! 第1話でお嬢様がメモ帳に書いていた【貸借対照表(バランスシート/BS)】ですっ!」
「正解ですわ! いいこと、お父様? 現代経営において最も重要なこの表は、左側に【資産】、右側に【負債】と【純資産】を配置しますの!」
私は左側のエリアに『資産(持っている財産)』、右側の上に『負債(返さなければならない借金)』、右差額に『純資産(真の自分の財産)』と大きく書き込んだ。
「アラン父様、貴方は我が公爵家を『大富豪』だと思い込んでいらっしゃいますわね?」
「も、もちろんだとも! 王都の一等地にそびえ立つこの広大な大屋敷に、豪華な調度品、さらには北部にある広大な領地……! 客観的に見ても、我が家は大金持ちじゃないか!」
自信満々に胸を張る父様に、私は冷酷な笑みを浴びせかけた。
「では、数字で現実を直視いたしましょう。左側の【資産】から検証しますわよ」
私は黒のペンで、左側に次々と項目を書き殴っていった。
「まず【現金・預金】! 昨夜、わたくしが王太子からむしり取っ……回収した手付金が三千万リン、そこからノア様への出資等で一千百万リンを決済し、手元残高は約千九百万リン(約千九百万円)! 貴方が残していた金庫の現金は、たったの三千リン(約三千円)でしたわ!」
「ぎくっ……!」
「次に【調度品・美術品】! 屋敷に飾られた絵画やシャンデリア、購入時は合計十億リン以上かかったそうですが――今すぐ市場で叩き売った場合の換金処分価値は、せいぜい【一億リン(約一億円)】ですわ!」
「ええっ!? あんなに高かったのに十分の一にしかならないのかい!?」
目を丸くする父様に、ノアが低く淡々とした声で補足を挟んだ。
「美術品や特注家具は、買い手がつかなければただのガラクタです。換金性の低い資産は、帳簿価格(簿価)ではなく、今売れる実勢価格(時価)で評価するのが財務の常識ですよ、公爵閣下」
「う、うむ……そうなのか……?」
「そして極めつけは【不動産・領地】ですわ!」
私は赤ペンで大きくバツ印をつけた。
「北部の公爵領は冷害続きで農民からの年貢は激減、鉱山は枯れ果てて維持費ばかり垂れ流す赤字垂れ流し状態! 担保割れを起こしており、現在の実質的な正味売却価値は、屋敷と合わせてもせいぜい【二億リン(約二億円)】程度ですわ!」
トントン、とスクロールを叩く。
「以上! 我がアークライト公爵家の換金可能な【総資産】は、すべてかき集めても――たったの【三億二千万リン(約三億二千万円)】ですわ!」
「さ、三億円もあるなら、やっぱり大金持ちじゃないか!」
ホッと胸を撫で下ろす父様。
だが、私のハゲタカの目はここからが本番だった。
「おめでたい頭をお持ちのようですわね、お父様? 資産(左側)だけを見て喜ぶのは、小学生のお小遣い帳レベルですわ! 問題は――右側の【負債(借金)】ですのよ!」
バァンッ! と机を叩き、私は金庫から引っ張り出してきた借用書の束をスクロールの横にぶちまけた。
「ミア、読み上げなさい!」
「は、はいぃっ!」
ミアが震える手で借用書を一枚ずつ掲げる。
「財務大臣ガストン卿の商会からの高利融資、年利十五%で金貨二万枚――【二十億リン】!」
「金貸しギルドからの不動産担保借入、金貨一万枚――【十億リン】!」
「エドワード王太子のご機嫌取りのために契約した、最新式魔導クルーザーと金メッキ馬車の分割リース債務、金貨一万枚――【十億リン】!」
「そして、王都の高級洋服店や宝石商への未払いツケ払い(買掛金)、金貨一万枚――【十億リン】ですぅぅぅ!!」
ミアの悲鳴が響くたび、私は右側の【負債】欄に赤インクで極太の数字を叩きつけていく。
「これらを合計した、我が公爵家の【総負債額】は――」
キュキキキッ! と嫌な音を立てて、スクロールの中央に巨大な赤文字が躍った。
「【五十億リン(約五十億円)】ですわーーーーーっっっ!!!!」
部屋の空気が凍りついた。
父様の顔から、サーッと血の気が引いていく。
「ご、ごじゅうおく……? そんな……ちょっと付き合いで借りたり、分割払いにしただけなのに……?」
「『ちょっと』で五十億も借金を作る大馬鹿者がどこにおりますのっ! いいこと、お父様? 貸借対照表の左右の合計は、絶対に一致しなければなりません! 資産(三億二千万リン)から、負債(五十億リン)を差し引いた、残りの【純資産】……すなわち、我が公爵家の真の自己資本は――」
私は特大の赤ペンで、右下のエリアにマイナスの三角印を刻み込んだ。
「【マイナス四十六億八千万リン(約マイナス四十七億円)】! 専門用語でこれを――【超弩級の債務超過(バランスシートの完全破壊)】と呼びますのよっっ!!」
「さいむ……ちょうか……!?」
父様が痙攣するように呟く。
すかさずミアが、涙目で両手を振り回しながら叫んだ。
「お父様、分かりやすく言いますとね! このお屋敷も、家具も、領地も、お父様のお洋服もパンツも全部売り払ってスッカラカンになっても、まだ四十七億円の借金が残るってことですようっ!」
「そ、そんな馬鹿なああああっ!? パ、パンツまで売っても足りないのかいっ!?」
「足りるわけがありませんわ!」
私は眼鏡のブリッジをクイと押し上げ、情け容赦なくトドメを刺した。
「しかも、この五十億の借金には平均年利十%以上の利息がついていますのよ!? 年間利息だけで五億リン! 一日あたり約百四十万リン! お父様がこうして呑気に高級紅茶をすすって息をしている間にも、一分ごとに千リン札が暖炉で燃やされているのと同じですわ!」
「ひ、一日で百四十万円……!? が、ガストン卿は『公爵家ほどの信用があれば、借金をテコにして投資するレバレッジ経営こそが貴族の嗜みですぞ』と言っていたのに……!」
「愚か者っ!!」
私は机を両手でバンと叩いて身を乗り出した。
「レバレッジ(借入)とは、事業の利益率が借入金利を圧倒的に上回っている時にだけ使える諸刃の剣ですわ! 利回りゼロの贅沢品や見栄のクルーザーを買うために年利十五%で金を借りるなど、レバレッジでも何でもない、ただの自殺行為ですことよっ!」
「う、うわああああああああっっ!!」
ついに耐えきれなくなったアラン公爵は、正座の体勢のまま床に額を擦り付け、子どものように号泣し始めた。
「すまない、すまなかったセシリアぁぁぁっ! 私は名門アークライト家を破滅に導いた大罪人だぁぁっ! 見栄を張って、商人の口車に乗せられて……! もうおしまいだ、我が家は破産だぁぁぁっ!」
床を涙で濡らしながら取り乱す父。
だが、私には同情など一ミリもなかった。
待っていたのは、この瞬間だったのだから。
スッ……と、私はあらかじめミアに用意させておいた羊皮紙の契約書を、床に突っ伏す父の鼻先へ滑り込ませた。
「泣いている暇があるなら、これにサインと血判をなさい」
「……え? こ、これは……?」
「【公爵家家計統括権および領地経営全権委譲承諾書】ですわ」
父様がおずおずと顔を上げる。
私はサファイアブルーの瞳を冷ややかに細め、絶対零度の声で告げた。
「本日ただ今をもって、お父様の金銭に関する決定権をすべて剥奪いたします。公爵家の金庫、領地の銀行口座、契約書の締結権、使用人の人事権――すべてわたくしが掌握いたしますわ。お父様には今後、毎月銀貨十枚(一万リン)の定額小遣いのみを支給し、対外的な儀礼に出席するだけの『看板公爵』となっていただきます」
「ぜ、全権委譲……!? お小遣い一万円……!?」
「嫌なら結構ですわよ? 今すぐ自己破産を申請して、親子揃って王都の広場で身ぐるみを剥がされ、物乞いでも始めますかしら?」
「か、書きます! 喜んで全権をお譲りしますぅぅぅっ! セシリア、どうか我が家をお救いくださいぃぃぃっ!」
父様は震える手で羽ペンを握りしめ、承諾書にサインすると、公爵当主の証である純金の印章をペタリと押し付けた。
――カシャリ。
公爵家の全財産の生殺与奪の権が、完全に私の手中に落ちた瞬間だった。
(よし……! これで邪魔な親の浪費と口出しを完全に封殺したわ! あとは私の手腕で徹底的に無駄を削ぎ落とし、筋肉質の財務体質に叩き直して、早期リタイア(FIRE)への最短ルートを爆走してやるんだから……!)
私が内心で悪役令嬢らしいハゲタカの笑みを浮かべてほくそ笑んでいると――。
背後から、スッと長い影が私を包み込んだ。
「……見事な手腕でした、セシリア様」
振り返ると、ノアが深いアメジストの瞳を潤ませ、息を呑むような熱情を込めて私を見つめていた。
その切れ長の瞳には、一片の疑いもない純度百%の崇拝が宿っている。
「ノ、ノア様……?」
「実の父親にすら情に流されず、破滅の淵から家と領民を救うために自ら泥をかぶり、冷徹な悪役を演じてみせる……。あなたほど強く、気高く、慈悲深い女性を、俺は他に知りません」
「……は? じ、慈悲深い……?」
ちょっと待ちなさい。
私はただ、自分の将来の不労所得ライフを邪魔されたくないから親から財布を取り上げただけですわよ!?
「セシリア様。あなたが手に入れたこの公爵家の未来、俺のすべてを賭けて支えます。計算、回路の設計、新技術の開発……あなたの望む数字を叩き出すためなら、俺の脳のシワ一本に至るまで、すべてあなたに捧げましょう」
ノアは私の前に片膝をつき、恭しく私の右手を取ると、その甲に熱い誓いの口づけを落とした。
「ひゃっ……!?」
「お、お嬢様ぁぁぁっ! ノア様がまたナチュラルに命がけの愛の誓いを捧げてますよぅ! カッコよすぎて気絶しそうですぅぅっ!」
「だ、誰かミアの口を塞ぎなさいっ!」
手の甲に残る熱に、顔がカッと赤くなるのを必死で扇子で隠す。
重い! この天才魔導師、いちいち感情のレバレッジが高すぎるんですのよ!
「コ、ゴホンッ! と、とにかく全権は掌握いたしましたわ! 休んでいる暇はありませんことよ!」
私は動揺を振り切るように、執務机に積まれた分厚い支出帳簿の山を指差した。
「止まらない出血を止めるため、公爵家再建計画・第三フェーズへ移行いたします! まずは屋敷に巣食う【毎月垂れ流しの無駄な固定費の怪物】を、一匹残らず叩き切って差し上げますわよ!」
私の号令とともに、アークライト公爵邸の大ナタを振るう嵐のような大改革が、いよいよ幕を開けたのだった――!
【巻末付録】セシリアお嬢様の3行マネー講座
「貸借対照表(BS)」で現実の姿を直視しなさい! 資産(持っているもの)から負債(借金)を引いた「純資産」こそが、あなたの本当の実力ですわ。
資産より借金が多い「債務超過」は即座に危険水域! 高級車やブランド品を持っていても、中身が借金まみれなら一歩で破滅するハリボテにすぎませんことよ。
金利を無視した「なんちゃってレバレッジ」はただの自殺行為! 借金をして良いのは「借入金利を確実に超える利益を生む投資」の時だけだと肝に銘じなさい!
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




