EP 5
ノア様への特別ボーナス〜ストックオプションで一蓮托生ですわ〜
「ノア・ヴァレンタイン男爵! 名門アークライト公爵家などに義理立てする必要など微塵もありませんぞ! 我が陣営へ来れば、今すぐ夢のような栄華が約束されるのです!」
アークライト公爵邸の最上階、陽光あふれる開発室に、耳障りな油気を含んだ声が響き渡っていた。
豪奢なビロードのコートをまとい、胸元に黄金の鷲のブローチを光らせているのは、財務大臣ガストン卿の傘下にある筆頭投資商会『王都金翼商会』の専務、ブラッドリーだった。
ブラッドリーは机の上に、ドスンと重たい革袋を三つ並べ、自慢げに顎をしゃくった。
「ガストン閣下からの直々の条件です! 我が商会の筆頭技術顧問として迎えるにあたり、提示する報酬は――年俸【金貨千枚(一億リン/約一億円)】! さらに、没落した貴殿の実家であるヴァレンタイン男爵領の負債を全額肩代わりし、領地復興のための基金を無担保で融資いたしましょう!」
「ひゃ……ひゃあああああっ!? ね、年俸一億円ぇぇぇっ!?」
お茶を運んできたミアが、トレイを取り落としそうになって叫んだ。
「い、一億円!? ノア様が今もらってる月給三十万リンの……三百倍以上ですよぅ!? しかも実家の借金まで全部返してくれるなんて、そんなの破格中の破格じゃないですかぁぁっ!」
ミアが目を白黒させて飛び跳ねる中、当のノアは白衣の袖をまくり、作業机の魔導回路から視線すら上げなかった。
深遠なアメジストの瞳には、虫けらを見るような冷淡さしか宿っていない。
「話はそれだけですか? 回路の並列演算の邪魔です。金貨を持って速やかに退出してください」
「な……っ!? 年俸一億円を前にして、平然としていられるのか!? 目を覚ましなさい、ヴァレンタイン男爵!」
ブラッドリーは苛立たしげに革袋を叩き、嘲笑を浮かべた。
「貴殿は騙されているのだ! セシリアの小娘は、貴殿の類まれなる才能をたかが月給三十万リンという二束三文で買い叩き、ランタンやコンロの利益をすべて独り占めしているのだぞ! 天才技術者を安月給でこき使って私腹を肥やす、典型的なブラック令嬢ではないか! 技術者の尊厳を取り戻すためにも、我が金翼商会へ移籍すべきだ!」
ノアを「搾取されている哀れな被害者」に仕立て上げ、強欲な甘言で引き抜こうとする工作。
その瞬間――開発室の空気が、ピシピシと凍りついた。
「……俺の尊厳、ですか」
ノアが静かにペンを置き、立ち上がった。
その全身から、紫電を帯びた高密度の魔力が立ち上る。
アメジストの瞳が、獲物を分子分解する死神のように冷徹に細められた。
「セシリア様が俺に与えてくださったものの価値を……貴様のような下劣なハイエナが知った風な口を利くな。その薄汚い口を永遠に開けないよう、喉の筋肉組織ごと融解させてや――」
「物理で黙らせようとするんじゃありませんことよーーーーっっ!!」
ビシィッ! と私の愛用の扇子がノアの額をクリーンヒットした。
「ひゃぅっ!?」
「ノア様! 物騒な術式を展開するのはおやめなさい! 愛の出力が高すぎて殺人未遂になりますわよ!」
「……っ、す、すみませんセシリア様。あなたの悪口を聞いた瞬間、脳の安全弁が焼き切れてしまって……」
額を押さえてシュンと項垂れるノア。
私は気を取り直し、胸元から銀縁眼鏡を取り出すと、キリッと鼻梁へ押し上げた。
サファイアブルーの瞳の奥で、獲物を丸裸にするハゲタカの目がギラリと覚醒する。
「ブラッドリー専務。我が社の最重要無形固定資産(ノア様)を、そんな安物の釣り餌で買収できるとお思いかしら?」
「安物だと!? 何を強がるかセシリア嬢! 年俸一億リンだぞ!? 王都のどの商会を探しても、技術者にこれほどの年俸を提示できるところなど存在せんわ!」
「ふふっ……笑止千万ですわね」
私は優雅に扇子を開き、哀れな獲物を見下ろすように冷ややかに微笑んだ。
「目先の【固定給】の多寡しか見えていないのは、資本の論理をこれっぽっちも理解していない三流ブローカーの浅知恵ですわっ!」
「さ、三流だとぉっ!?」
「ミア、黒板をこちらへ! 資本主義の真の富の生み出し方を、この無知なスカウトマンに講義して差し上げますわよ!」
「は、はいぃっ!」
ミアが運んできた黒板に、私はチョークを握りしめ、激しい音を立てて書き殴った。
「いいこと、ブラッドリー専務? 貴方が提示した『年俸一億リン』……それは専門用語で言うところの、ただの【給与所得(労働の対価)】にすぎませんわ!」
カツンッ! とチョークが粉を散らす。
「給与所得の致命的な欠点は三つ!
第一に、累進課税によって半分近くが税金で吹き飛ぶこと!
第二に、物価が上昇すれば実質的な価値が目減りすること!
そして第三に――会社がどれほど大成長して何千億リン稼ごうが、もらえる金額は契約時の『一億リン』で完全に頭打ちになるという点ですわっ!」
「ぐ……っ、だ、だが一億円は大金だ! 月給三十万円に比べれば圧倒的ではないか!」
「おめでたい頭をお持ちのようですわね! 真の天才技術者を報いるべきは、経営者が恵んでやる給料などではない――自らの技術で会社を爆発的に成長させた果実を直接分かち合う、資本主義最強のインセンティブ兵器――【ストックオプション(新株予約権)】ですわっっ!!」
「すとっく……おぷしょん……?」
ミアが目を白黒させる。
私は黒板に、一枚の契約書の図を描き殴った。
「ストックオプションとはね、『あらかじめ決められた価格(行使価格)で、将来、自社の株式を買い取ることができる権利』のことですのよ!
本日ただいま、我がアークライト公爵家は、ノア様に対し――新会社【アークライト・テクノロジーズ】の【新株予約権・十万株(発行済株式の十%分)】を、特別賞与として付与(無償割当)いたしましたわ!」
「か、株式を安く買える権利……? お嬢様、それってどういうことですかぁ?」
首を傾げるミアに、私はサファイアの瞳を輝かせて数字を叩きつけた。
「計算いたしましょう! 現在の新会社の発行株価(権利行使価格)は、設立初期の割安な基準――【一株=千リン(約千円)】に設定してありますわ!
つまりノア様は、将来いつでも、一株千リンで十万株(合計一億リン)を買い取ることができるのです!」
「えっ……? 一億円払って株を買う権利なんですか? それじゃあ、お金をもらうどころか、ノア様がお金を払わなきゃいけないじゃないですかぁ!」
「甘いですわ、ミア! ここからが【資本の魔法】ですのよ!」
私は黒板に、急上昇する株価チャートを力強く描き殴った。
「いいこと? 現在、ノア様の特許回路を使ったランタンとコンロは王都を席巻し、毎月莫大なキャッシュを生み出していますわね!
今後、この新会社が上場(IPO)を果たすか、あるいは大手市場へ本格展開した時……会社の時価総額は、低く見積もっても【一千億リン(約一千億円)】を突破いたします!
その時――一株あたりの市場価格は、千リンからいくらに跳ね上がると思いますこと!?」
「い、いくらですかぁ……!?」
「きっかり百倍――【一株=十万リン(約十万円)】ですわっっ!!」
キュキキキッ! と嫌な音を立てて、黒板の中央に巨大な数字が刻まれる。
「さあ、その時ノア様が権利を行使した場合の計算をいたしましょう!
市場で十万リンで取引されているプレミアム株式を、約束通り【一株たったの千リン】で買い取るのです!
その差額――一株あたり【九万九千リンの純利益】!
それが十万株分となれば……ノア様の手元に残る純利益は、いったいいくらになりますこと、ブラッドリー専務!?」
ビシッと人差し指を突きつけられたブラッドリーが、脂汗を滝のように流しながら計算し――そして、内臓が飛び出たような悲鳴を上げた。
「きゅ……【九十九億リン(約百億円)】……だとぉぉぉっ!?」
「「――ひゃ、ひゃくおくぅぅぅぅぅぅっっっ!?」」
ミアが両手で頭を抱えて椅子から転げ落ちた。
開発室が、水を打ったように静まり返る。
「お分かりになりましたかしら!?」
私は黒板をダンッ! と平手で叩いた。
「貴方がドヤ顔で持ってきた年俸一億円など、百億円のキャピタルゲインの前には【たったの百分の一の端金】にすぎませんわっ!
他人の会社で顎で使われる奴隷サラリーマンの給料と、自らの才能で時価総額を押し上げ、莫大な富を合法的に総取りする【共同オーナー(資本家)の果実】……どちらが真に技術者をリスペクトしているか、小学生でも分かりますことよっ!」
「ば、化け物め……っ! まだ上場もしていない吹けば飛ぶようなベンチャーの株価が、百倍になる保証がどこにあるというのだ!」
「保証? ふふっ、保証ならここにありますわ」
私はノアの肩にポンと手を置き、不敵なハゲタカの笑みを浮かべた。
「このノア・ヴァレンタインの規格外の頭脳、そして元・敏腕公認会計士であるわたくしセシリアの財務戦略……この二つが揃って、時価総額千億円を叩き出せないはずがありませんもの!
会社が成長すればするほど、ノア様自身も天文学的な大富豪になれる……これぞ、経営者と技術者が運命を共にする【究極の一蓮托生システム】ですわっ!!」
「ぐ……うわあああああああっっ!!」
完全なる数字とファイナンス理論で叩きのめされたブラッドリーは、金貨の袋を抱え、泡を吹いて転がるように部屋から逃げ出していったのだった。
静寂が戻った開発室。
夕陽が窓から差し込み、黒板の「九十九億リン」の計算式を赤く照らし出している。
私は扇子をパタパタと仰ぎ、満足げに息を吐いた。
「ふぅ……。まったく、下品なスカウトでしたわね。これでノア様の繋ぎ止め(リテンション)は完璧ですわ」
(ふふふ……ストックオプションを渡しておけば、ノア様は『自分の資産を増やすため』に死ぬ気で新技術を開発してくれる! 私は寝ているだけで時価総額が膨れ上がり、早期リタイア(FIRE)へまた一歩近づく……! 資本主義のインセンティブ設計、美しすぎますわ!)
私が内心で悪役令嬢らしくほくそ笑んでいると――。
すっ、と背後から熱く暖かな気配が近づいてきた。
「……セシリア様」
振り返ると、ノアがその長身を折り曲げ、至近距離から潤んだアメジストの瞳で私を見つめていた。
その白皙の頬は夕陽よりも熱く染まり、息を呑むほど整った美貌が、狂おしいほどの感情に震えている。
「ノ、ノア様……? またお顔が近いですわ……」
「……お金の額なんて、どうでもいいんです」
低く、甘く掠れた美声が、私の鼓膜を心地よく痺れさせる。
ノアの白く長い指先が、そっと私の右手をすくい上げると、自らの胸元――トクトクと激しく脈打つ心臓の位置へと導いた。
「他人が積んできた金貨の山を鼻で笑い、俺の未来に百億円もの価値をつけてくださった……。そして何より……俺に会社の権利を与え、一生離れられないよう、運命を一つ(一蓮托生)に結びつけてくださった……」
「い、いや、これは単なるシリコンバレー流のストックオプション設計であって……!?」
「いいえ、分かっています」
ノアは蕩けるような愛おしさを込めて微笑むと、私の指先に、祈りを捧げるような熱い口づけを落とした。
「将来、あなたが築く世界一の帝国(会社)を、俺と半分ずつ分かち合おうという契約……。これほど気高く、情熱的な【実質的な婚約予約】を、俺は他に知りません」
「……っっ!?!? け、結婚予約……っ!?」
「ええ。俺の頭脳も、特許も、そしてこの命の鼓動さえも……すべてあなたのものです。あなたと一蓮托生になれるなら、俺は一生、あなたの資本の一部として新しい奇跡を紡ぎ続けましょう。……セシリア様、どうか俺というストックを、生涯手放さずに握りしめていてください」
ボッッッ! と私の顔が沸騰するように赤くなった。
至近距離で囁かれる、国宝級イケメンの命がけの蕩け顔!
(重い! 重い重い重いわノア様ーーーっっ! 新株予約権を、結婚指輪の引換券みたいに解釈しないでくださるーーーっっ!?)
「きゃあぁぁぁっ! お嬢様ぁっ! ノア様から『百億円の生涯一蓮托生プロポーズ』いただきましたぁぁっ! もう早くストックを行使してあげてくださいぃぃっ!」
「だ、誰かミアの口に株券を詰め込みなさいっ! ノ、ノア様も離れなさいなっ! これは純粋なコーポレート・ガバナンスですわっ!」
真っ赤になって手を引き抜こうとする私と、満面の笑みで囃し立てるミア。
優秀な技術者の囲い込みは完璧に完了し、アークライト商会の結束はダイヤモンドよりも強固になった。
――だが、その平穏は長くは続かなかった。
数日後、公爵邸の執務室へ、商業ギルドの調査員が青ざめた顔で駆け込んできたのだ。
「セ、セシリア様! 大変です! 王都の闇市や一部の怪しげな商店で……我がアークライト商会のランタンとコンロに酷似した【激安の粗悪コピー商品】が、大量に出回りはじめております!!」
「「――なんですって!?」」
悪徳商会による卑劣な模倣品の出現。
だが、知的財産を武器にする悪役令嬢セシリアの辞書に、「泣き寝入り」の文字など一文字たりとも存在しないのだった――!
【巻末付録】セシリアお嬢様の3行マネー講座
優秀な仲間を繋ぎ止めるなら「ストックオプション」を活用せよ! 単なる給料アップ(費用)ではなく、会社の成長益を共有する権利を渡すことで、最強の当事者意識が生まれますわ!
「給与所得」と「キャピタルゲイン(資本収益)」の桁の違いを知れ! 汗水垂らして働く労働者側の枠組みから脱出し、会社の成長から富を得る資本家側へ回るのが富豪への絶対法則ですわ!
目先の札束で優秀な人材を釣ろうとする会社を疑いなさい! 固定給だけで使い潰すブラック企業を見抜き、将来の成果を正当に分かち合える本物のパートナーを選びなさい!
読んでいただきありがとうございます。
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