第36話 人殺しの弟
「お~い!起きろよ!■■■!」
「ん...なんだよ兄貴。」
いつも通りの朝だ。
兄が今日も俺を起こしに部屋へ飛び込んで来る。
俺が布団を深く被っても兄は何度も起こし続ける。
そんな毎日だった。
「ほら、早くしろよ。遅刻するぞ」
「分かってるって...」
「分かってる奴は布団に籠らねぇんだよ」
兄はそう言って俺の布団を無理やり剥がした。
「寒っ...」
「もう春だぞ。」
「朝は寒いんだよ。」
「はいはい。じゃあ飯食いに行くぞ。」
「分かったよ。」
俺は眠い目を擦りながらベッドから起き上がった。
階段を降りる。
キッチンでは母が朝食を用意していた。
くだらない会話。
何の変哲もない朝。
それが当たり前だった。
兄は俺より少しだけ早く家を出る。
俺はその背中を見ながら学校へ向かう。
それもいつものことだった。
兄は昔から明るかった。
誰とでも話せて、友達も多かった。
俺とは正反対だった。
俺は別に兄ほど人付き合いが得意じゃなかった。
だから、兄のことを少し羨ましく思っていた。
それから数年が経った。
勉強が出来る兄は全国でも有名な学校に行った。
そして俺は名前を書けば受かるような高校、俺たちは別の学校へ通っている。
兄は相変わらずだった。
明るくて、友達が多くて。
家に帰れば学校であったことを楽しそうに話していた。
俺はそんな兄の話を聞きながら、適当に相槌を打つ。
それが当たり前の日々だった。
そんな当たり前が大好きだった。
ある日の帰り道。
俺は1人で家へ向かっていた。
いつもの道。
いつもの時間。
いつもの景色。
その日も、何も変わらないと思っていた。
「■■■」
後ろから声を掛けられた。
振り返る。
知らない男が立っていた。
「...誰?」
「お前、あいつの弟だろ?」
「あいつ?」
「とぼけんなよ」
男は笑っていた。
その笑顔が妙に気持ち悪かった。
「お前の兄貴、最近調子乗ってるよな。」
「...兄貴が?」
「そうだよ。」
男が一歩近づいてくる。
俺は反射的に後ろへ下がった。
男はポケットから何かを取り出した。
鈍く光る刃物。
「っ...!」
足が震える。
男がさらに近づいてくる。
鋭い刃先が俺の顔へ、目へと向けられる。
後ろは壁、もう逃げ場がない。
その瞬間。
「■■■!」
聞き慣れた声がした。
兄だった。
「お前、弟に何してんだ?」
「お前こそ何だよ。」
男は兄に刃物を構え直した。
兄は俺を見た。
「■■■、下がってろ。」
「で、でも...!」
「いいから。」
いつもの兄とは違う声だった。
低くて、静かな声。
俺は言われた通りに後ろへ下がった。
男が兄へ向かって走り出す。
「兄貴!」
次の瞬間。
鈍い音がした。
兄の身体が男にぶつかる。
二人が地面に倒れ込んだ。
「兄貴!」
俺は駆け寄ろうとした。
だが、兄が叫んだ。
「来るな!」
俺の足が止まる。
何度も揉み合う音が聞こえた。
怒鳴り声。
荒い息遣い。
そして。
静かになった。
「...兄貴?」
兄が立ち上がった。
その手には、赤いものが付いていた。
地面には男が倒れていた。
動かない。
兄は俺を見る。
しばらく何も言わなかった。
そして、いつものように笑った。
「■■■、怪我ないか?」
「...うん。」
「そっか。」
兄はそれだけ言った。
俺は倒れている男を見る。
兄はただ俺の頭に手を置いた。
「泣くなよ。」
「だって...」
「俺は大丈夫だから。」
兄はそう言って笑った。
でも、その笑顔はいつもの兄の笑顔とは少し違っていた。
俺は何も言えなかった。
目の前で倒れている男。
兄の手に付いた赤いもの。
頭では分かっていた。
もう、この男は動かない。
「...兄貴。」
「ん?」
「...血。」
兄は自分の手を見た。
「ああ...これか。」
兄は少しだけ黙った。
それから、俺の頭を撫でた。
「気にすんな。」
「で、でも...!」
「お前を守っただけだ。」
兄はそう言った。
その声は、いつもの優しい声だった。
だからこそ、余計に怖かった。
俺は何も言えなかった。
ただ、目から涙が溢れてきた。
「...泣くなって。」
「だって。」
「俺は大丈夫だって。」
兄は笑った。
でも、その笑顔を見ていると、余計に涙が出てきた。
兄は俺の頭を撫で続けた。
何度も。
何度も。
兄は俺の涙を拭いながら、困ったように笑った。
「なぁ。」
「...?」
「もう泣かないって、約束しないか?」
「約束?」
「そう。男同士の約束だ。」
兄はそう言って、小指を俺の前に差し出した。
「兄貴...」
「俺も約束する。」
「何を?」
「お前を泣かせない。」
兄は笑った。
いつもの笑顔だった。
少なくとも、その時の俺にはそう見えた。
俺は涙を拭って、兄の小指に自分の小指を絡めた。
それから、兄は帰ってこなくなった。
父はずっと黙っていた。
母は明るく振舞おうと無理していた。
学校へ行けば、知らない奴まで俺を見る。
『人殺しの弟』
そんな声が聞こえる。
俺は何も言い返せなかった。
兄は俺を守っただけだ。
それなのに。
兄が人を殺したという事実だけは、消えなかった。
それからしばらくして、俺は学校へ行かなくなった。
外へ出れば、誰かが俺を見る。
人殺しの弟。
その言葉が、ずっと頭の中に残っていた。
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