第34話 扉
「何だったんだ...?」
俺は暗闇の向こうを見つめた。
先ほど、一瞬だけ見えた人影。
魔獣ではない。
確かに、あれは人だった。
しかも、明らかに幼い少女。
こんな迷宮の奥に、少女が一人でいる。
その事実がどうにも引っかかった。
「もしかして迷子か?」
そんな考えが頭をよぎる。
でも、どうやってここまで来た?
この迷宮は古く、道も複雑だ。
俺たちでさえ、入り口からそれほど進んでいないというのに。
ましてや、あんな幼い少女が一人でここまで来られるとは思えない。
いや、考えている場合じゃない。
もし本当に迷子なら、早く助けなければならない。
俺は人影が消えた方向へ走り出した。
「待ってくれ!」
声を上げる。
しかし返事はない。
ただ、暗闇が広がっているだけだった。
俺はさらに速度を上げた。
すると、前方の暗闇の中に何かが見えた。
「...!」
人影だ。
小さな背中。
そして、その背中から長い金色の髪が伸びている。
走るたびに、その髪が左右に揺れていた。
「おい!」
俺が声をかける。
すると少女は、こちらを振り返った。
ほんの一瞬だけだった。
顔までは、よく見えない。
だが、俺が追ってきていることに気づいたのは間違いない。
少女は再び前を向くと、そのまま暗闇の奥へと逃げていった。
「っ...待ってくれ!」
俺は少女の背中を追った。
石造りの通路を走る。
足元には長い年月で削れた石が並んでいる。
ところどころ崩れている場所もあり、決して走りやすい道ではない。
それでも少女は迷う様子がない。
まるで、この迷宮の構造を知っているかのように、迷いなく進んでいく。
「...速い。」
俺は思わず呟いた。
少女は素足だった。
靴を履いていない。
それなのに、石の床をものともせず走っている。
普通なら、こんな場所を素足で走れば足を痛めるはずだ。
それどころか、足音すらほとんど聞こえない。
俺の足音だけが、石造りの通路に響いている。
明らかにおかしい。
曲がり角を1つ抜ける。
さらにもう1つ。
それでも少女は止まらない。
「待て!」
俺は何度も声をかけた。
だが、少女は一度も返事をしない。
まるで俺の声が聞こえていないかのようだった。
いや。
聞こえているからこそ、逃げているのかもしれない。
「何なんだ、あいつ。」
俺は走りながら呟いた。
魔獣なら話は分かる。
この迷宮に住み着いている大型の魔獣。
それを討伐するために、俺たちはここへ来た。
だから、何かが逃げているなら、それが魔獣だと思うのが普通だ。
だが、あれは明らかに少女だった。
人間の女の子。
少なくとも、俺にはそう見えた。
なのに、走っても走っても追いつけない。
俺がどれだけ速度を上げても、少女との距離は縮まらなかった。
むしろ、少しずつ離されている。
「...くそ。」
俺は歯を食いしばった。
このままでは見失う。
そう思った瞬間だった。
少女の姿が、突然消えた。
「っ...!?」
俺は慌ててその場所まで走った。
「どこへ行った?」
急停止して辺りを見回す。
だが、少女はいない。
左右に伸びる通路。
後ろには、俺が走ってきた道。
正面には、行き止まり。
俺は周囲を見回した。
おかしい。
確かに、ここに入っていった。
俺の目の前を走っていた。
そして、この角を曲がった。
なのに、どこにもいない。
隠れられるような場所もない。
通路の脇にも、何かが隠れているような場所は見当たらない。
「どこかに居るはずだ...」
俺は壁を一つずつ確認していった。
指先に、妙な感覚が走る。
「...!?」
壁の一部に、わずかな隙間がある。
俺はその場所に顔を近づけた。
暗くて分かりにくい。
だが、確かに何かがある。
隙間の周囲を手で探る。
「...扉か?」
そこには、古びた石の扉があった。
周囲の壁とほとんど同じ色をしている。
「ここに居るのか...?」
そして、取っ手に手を伸ばす。
触れた瞬間。
「冷たい...」
ひどく冷たかった。
妙な感じがする。
上手く言葉にできない。
この扉の向こうから、何かが伝わってくるような気がした。
頭の中に、先ほどの少女の姿が浮かぶ。
長い金色の髪。
素足。
暗闇の中を、こちらを振り返ることなく走っていった少女。
そして、突然消えた姿。
「...よし!」
ゆっくりと力を込める。
古びた音が、静かな迷宮に響き渡った。
その音が、やけに大きく聞こえた。
扉の向こうには、薄暗い部屋が広がっていた。
俺は中を覗き込む。
少女の姿は見えない。
部屋の奥は暗く、何があるのかよく分からない。
「ここじゃないのか...?」
俺は慎重に一歩、中へ入った。
その瞬間。
「っぁ...!」
突然、頭に激痛が走った。
「な、なんだ...これ。」
頭の奥を直接殴られたような痛みだった。
視界が大きく揺れる。
「くっ...!」
俺は思わず頭を押さえた。
何が起きた?
さっきまで何ともなかった。
ただ部屋に一歩入っただけだ。
それなのに。
「なん...だ、これ。」
立っていられない。
足に力が入らない。
膝が震える。
耳鳴りが聞こえ始めた。
最初は小さかった。
だが、すぐに大きくなっていく。
「あ゛ぁ゛っ!」
耳を抑える。
それでも止まらない。
「うる...さい。」
耳鳴りは脳に直接響き続ける。
耳を塞いでも意味がない。
そんな事は分かっていても耳を塞ぎたくなる。
頭の中がかき回されていくようだった。
何かを考えようとしても、考えがまとまらない。
さっきまで何を考えていたのか。
なぜここに来たのか。
誰を追っていたのか。
それすら、一瞬分からなくなる。
俺は何とか立ち上がろうとした。
だが、膝から力が抜けた。
身体が前へ倒れていく。
床が近づいてくる。
このまま倒れる。
そう思った瞬間。
視界の端に、何かが映った。
部屋の奥。
暗闇の中に、誰かが立っている。
長い髪。
小さな身体。
「ぁ...」
あの少女だ。
確かに、あの少女だった。
長い金色の髪が、暗闇の中に浮かんでいる。
少女は、こちらを見ていた。
そして。
笑っていた。
「...」
なぜ笑っているのか。
何を考えているのか。
俺には分からなかった。
ただ、その笑顔だけが妙に鮮明に見えた。
そして俺の意識は、そこで途切れた。
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