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ノイズ(仮)  作者: fedlic
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保存区域 チェンマイ 第六話 読経とフィードバック

雨上がりの朝は、匂いが違った。


土と、葉と、石が濡れている匂い。それに線香が混ざった。風向きで、急にくる。どこかで焚いている。近くに寺があることを、PONは匂いで知っていた。


HUDは閉じていた。


今日は起きてすぐ閉じた。目覚めた瞬間に数字が来る前に、閉じた。その順番が、最近変わってきていた。


---


寺への道は、知っていた。


地図ではなく、足が覚えていた。カフェへの道を少し外れて、壁沿いに進んで、低い門をくぐる。それだけだった。


門の内側に入ると、空気が変わった。


温度ではなかった。湿度でもなかった。何か、密度のようなものが変わった。外の路地より、少しだけ重かった。重い、というのも正確ではない。ただ、中に入ると、外とは違う時間が流れている感じがした。


濡れた石畳。苔。根の張り出した大きな菩提樹。白い建物。金の装飾が朝の光を受けていたが、派手な感じはしなかった。古いから、光が馴染んでいた。


---


本堂の前に、犬が一匹いた。


茶色い、中くらいの犬。誰のものでもなさそうだった。石畳の上に寝そべって、PONを一度だけ見て、また目を閉じた。


PONは犬の横を通って、本堂の入り口に近づいた。


中から、読経が聞こえた。


低い、均一な音だった。一人ではなく、複数の声が重なっていた。でも合唱ではなかった。それぞれが、それぞれの速度で唱えていた。その微妙なズレが重なって、一つの音になっていた。


扉は開いていた。


中に入った。


---


薄暗かった。


窓から白い光が斜めに入って、埃が光の中を漂っていた。扇風機が一台、天井近くで回っていた。風ではなく、音が届く程度の速度で。


僧侶が六人、仏像の前に座っていた。オレンジの袈裟。背筋が、全員、同じ角度で伸びていた。


読経は続いていた。


PONは後ろの方に、静かに座った。


---


読経のリズムを、最初は意識して聴いていた。


BPMを数えようとした。でも、数えられなかった。一定ではなかった。正確には、一定に聞こえるのに、どこかが揺れていた。人の声だから当然だった。でもその揺れが、先週聴いた生演奏に似ていた。


意識するのをやめた。


聴くのもやめた。


ただ、そこにいた。


気づくと、呼吸が読経に合っていた。


いつからそうなったのか、わからなかった。身体が、勝手に合わせていた。吸って、吐いて、そのタイミングが、声のリズムと重なっていた。


身体が先に知っている。


シオンが言ったことを、思い出した。


---


読経が終わった。


静寂が来た。


音がなくなったのに、何かが続いている感じがした。残響でもなく、余韻でもなく、空間の中に何かがまだあるような。


扇風機だけが回っていた。


---


外に出ると、若い僧侶がいた。


境内の隅、木の根元に座って、何かを見ていた。目線の先に、薄いパネルが展開していた。HUDの情報レイヤー。


PONは少し、拍子抜けした。


僧侶はPONに気づいて、パネルを閉じた。閉じ方が、慣れていた。


「日本人ですか」と僧侶は日本語で言った。


「そうです」


「よく来ますか、ここ」


「二回目です」


僧侶は頷いた。二十代後半に見えた。顔が、まだ若かった。


「HUDを使うんですね」とPONは言った。


「使います」と僧侶は言った。特に恥ずかしそうではなかった。「配信もします」


「配信?」


「読経の。聴く人がいます。眠れない人とか、仕事中に流す人とか」


PONは、それを想像した。深夜の誰かの部屋に、この声が流れている。


「でも」と僧侶は続けた。「考えごとをするときは閉じます」


「集中のためですか」


「逆です」と僧侶は言った。「集中しすぎるので」


PONは、その答えを頭の中で繰り返した。


「集中しすぎる、というのは」


「一点しか見えなくなる」と僧侶は言った。「HUDが開いていると、最適な方向を示してくれる。それは便利です。でも、それだけになる」


「それの何が問題ですか」


僧侶は少し考えた。


「問題かどうかはわからない。ただ、閉じると、考えが——広がる感じがします。横に、というか。斜めに、というか」


「答えが出ない方向に?」


「答えを求めない方向に」と僧侶は言った。


---


境内を、少し歩いた。


僧侶が並んで歩いた。案内というより、同じ方向へ歩いていた。


「仏教とAI、矛盾しないんですか」とPONは聞いた。


「よく聞かれます」と僧侶は言った。


「どう答えるんですか」


「AIは苦を減らした、と答えます」


「それは良いことでは」


「良いことです」と僧侶は言った。「ただ、仏教は苦をなくすことを目指していない」


「どういう意味ですか」


僧侶は菩提樹の前で止まった。


「苦と共にいることを、学ぶ。それが修行です。苦がなくなれば、修行する理由も変わる」


変わる、と言った。なくなる、とは言わなかった。


---


帰り際、門のところでシオンとすれ違った。


ノートを持っていた。今日も黒い表紙。


「来るんですね、ここ」とPONは言った。


「毎週」とシオンは言った。「読経、身体に良い」


「信仰?」


「リズム」とシオンは言った。それだけだった。


門をくぐって、中へ入っていった。


---


路地に出た。


HUDを起動した。


今日は、通知が少なかった。エージェントのサマリーが二件、収益フローの定期報告が一件。


最後に、発信元不明のものが一件。


開いた。


*「人類は、長い時間をかけて呼吸を設計してきました。」*


PONはその一行を読んだ。


設計、という言葉が引っかかった。


読経も、建築も、儀式も、光の入り方も——全部、誰かが積み重ねてきたものだった。数千年かけて、身体に合うように、少しずつ調整されてきたものだった。


AIが最適化するより、ずっと長い時間をかけて。


もう一行、続いていた。


*「理解する前に、身体化されるものがあります。」*


PONはそれを読んで、閉じた。


---


カフェへ向かった。


今日のコーヒーは、何の比率になるだろうかと思った。


空が、また白くなり始めていた。


午後に雨が来る。


HUDの天気レイヤーを開く前に、そう思った。


開いて、確認した。


予報は、午後二時にスコール。


PONは予報を閉じて、空を見た。


雲の動きと、天気予報が、今日は一致していた。


それが当たり前のことなのか、そうでないのか、まだわからなかった。


ただ、空を見て確認した、という事実だけがあった。


*第七話につづく*

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